第2章「高架下の天秤」
監査局の男は、待っていた。
帝都の端、石造りの巨大な高架橋の下。頭上を走る蒸気機関車の重低音が響き、月明かりだけが彼の鋭い輪郭を縁取っている。
「遅いですね」
低い、剃刀のように冷徹な声。
漆黒のバイクを滑り込ませ、ララティーナはサイドスタンドを蹴り込んだ。ヘルメットを脱ぎ、夜風に金の髪をなびかせる。
「淑女は急ぎませんの。……ですが、アクセルを開けるべき時は心得ておりますわ」
「……あなたは走る、と聞いている。必要とあらば、法の網さえも」
男との距離は三歩。フォックスが影で銃口を向けていることを、この男も、そしてララティーナも察している。
だが、今はその「武力」すら余興に過ぎない。
「第二公爵と話しましたか」
「ええ」
「彼は裏切る。自分の保身のためなら、貴女の父さえ売る男だ」
「承知しておりますわ。……ですが、わたくしの本命はあのような小物ではありません」
ララティーナは、引き裂かれたドレスの裾を翻し、一歩踏み込む。
「監査局は第二公爵を捨て駒にし、父上の名を汚す。……ですが、あなたは違う。あなたは火をつけなかった」
男の目がわずかに揺れる。
「……何を根拠に」
「倉庫の火は派手すぎますわ。証拠もろともすべてを焼き尽くす……それは思考を放棄した破壊者の手口。
……秩序を愛するあなたの仕業ではない」
男は初めて、自嘲気味に口角を上げた。
「買いかぶりです。私は、ただ組織の命に従うだけの機械だ」
「いいえ。あなたは“正す側”であって、“壊す側”ではない。
……財務卿を狙うのは、帝国を正すためですか? それとも、誰かの席を作るためかしら?」
風が強まり、男の外套が大きく揺れた。
「財務卿は黒だ。……例えそれが国を守るためだったとしても、不正な金の流れを作った事実に変わりはない。切るべきだ。帝国のために」
「ならば、なぜ切る前にわたくしの前に現れたのです? ……あなたが守りたいのは帝国ではなく、その『正義』という名の矜持ではないかしら?」
ララティーナの声が、冷たく、だが熱を持って響く。
「わたくしが守るのは、帝国ではありません。……父です」
「……情、ですか。帝国は情では動かない」
「人は動きますわ。
……そして、あなたも。
その拳の握り方、迷いがない人間のものではありませんわよ」
男は目を伏せた。
静寂が支配する中、ララティーナは核心へ切り込む。
「監査局の中に、あなたを動かしている“上”がいる。その名を、わたくしに教えていただけます?」
長い沈黙。やがて、男が絞り出すように言った。
「……私は、三番目だ。上に二人いる。一人は帝国議会の重鎮。もう一人は──皇室直属の『切り役』。
財務卿を、父君を物理的に抹殺する権限を持つ者だ」
ララティーナの瞳が細まる。
父を狙う刃は、法律ではなく、より暴力的な権力だった。
「父を切るのは、あなたではないのね。……あなたは、刃ですらない」
「……ならば、私は何だ」
ララティーナは微笑み、再びバイクに跨った。
「迷い、立ち止まっている……ただの人間ですわ」
エンジンの咆哮が、高架下に反響する。
「次は、その『切り役』の名を。……わたくしが握るのは、バイクのハンドルだけではなく、あなたたちの運命(未来)ですのよ」
アクセルを全開に踏み込む。月明かりの下、男はその場に立ち尽くしていた。
初めて、その鉄の仮面のような表情に、救いを求めるような迷いが見えた。




