第3章「書斎の亡霊」
父の書斎は、いつも静まり返っていた。
重い遮光カーテン、壁一面を埋める分厚い帳簿。そして、何年も前に止まったままの大きな置時計。
ララティーナは深夜、音もなくその重厚な扉を開けた。机の引き出しに手をかける。鍵はかかっていない。
(……わざと、置いていらしたのね)
まるで、いつか娘がここに辿り着くのを待っていたかのように。
古い書類の束をめくる。十年前、帝国財務再編の初期案。その中に、一枚だけ色の違う紙が挟まっていた。
──特別予算執行。救済名目。記録抹消。ララティーナの指が、その「抹消」という二文字の上で止まる。
金額は国家予算の数パーセントに及ぶ膨大なもの。だが、用途の欄には曖昧な記述しかなかった。
“北部騒乱鎮圧に伴う緊急措置”その下には、見紛うはずもない、鋭く気品のある父の署名。
「それは、お前が見るべきものではないな」
背後で、冷え切った空気と共に声がした。
振り返ると、そこにはランプの逆光を背負った父が立っていた。
怒ってはいない。だが、何かを諦めたような、ひどく静かな眼差し。
「……北部騒乱は、飢饉でしたのね。父上」
父は答えない。
「鎮圧ではなく、隠蔽。……救済金を、武装費に回した。そうでしょう?」
「……守ったのだ。帝国を」
父の短い言葉に、ララティーナは紙を机に叩きつけた。
「またそれですの!? 救うための金を武器に変え、餓えた民を黙らせた。それが父上の仰る『守る』なのですか!」
「……暴動が全土に広がれば、帝国は割れていた。割れる前に、膿を出す必要があったのだ」
父の声が、痛みを堪えるように低くなる。
「お前は理想を語る。だがララティーナ、帝国は理想だけでは回らぬ。誰かが泥を被り、誰かが血を流さねば、明日の平穏すら買えんのだ」
ララティーナは、一歩も引かずに父の懐へと踏み込んだ。ランプの光が、二人の影を長く壁に映し出す。
「父上。……そんな理屈を並べて、あなたは夜、眠れますの?」
父は答えない。ただ、固く結ばれた唇がわずかに震えていた。
「私は、選んだのだ。救えぬものを切り捨て、残るものを生かす道を」
「監査局は、そこを突きますわ。……正義の面をして、父上の過去を処刑台に載せるつもりですわよ」
「……だから、お前を巻き込みたくなかった」ララティーナは、ドレスの裾を強く、白くなるほど握りしめた。
「もう遅いですの。……父上。わたくしは、あなたの選択を正しいとは申しません。ですが、独りで背負わせるつもりもありませんわ」
父を真っ直ぐに見据える。
「帝国を守るのは、父上の役目。……あなたを守るのは、わたくしの役目です」
長い沈黙。父は力なく椅子に腰を下ろし、娘を、あるいは亡き妻の面影を追うように見つめた。
「……似ているな」
「誰に」
「……私に。……そして、お前の母に」
父は一度だけ、絞り出すように呟いた。
「……すまないな、ララ」
その一言に、ララティーナの胸が疼く。
だが、彼女はすぐに「淑女」の顔に戻った。
「光栄ですこと。……ですが父上、切るならもっと上を切りますわ。監査局すら駒にしている、帝国の真の『病巣』を」
ララティーナは背を向け、書斎を後にする。「父上は、選んだ。……わたくしは、握ります」
ドアが閉まる音。廊下にはフォックスが控えていた。
「お嬢様、バイクの準備は?」
「ええ。……最高の速度で、地獄まで駆け抜けますわよ」




