第1章「深淵の取引」
第二公爵は、まだ正式な拘束の前だった。
屋敷の奥。応接間の灯りは落とされ、テーブルの上に置かれた一振りの蝋燭だけが、不気味に揺れている。
「大胆ですな、ララティーナ嬢」
公爵は椅子に深く腰掛けたまま、自嘲気味に言った。
「火事の夜に、飼い主……いえ、わざわざ獲物を訪ねてくるとは」
「火事だからこそ、ですわ」
ララティーナはたくし上げたドレスの裾を整え、優雅に、それでいて王者のような威圧感を持って対面に座る。
「あなたは切られる。
……いえ、もう切られていますわね」
公爵の指がピクリと止まる。
「言葉が強い」
「事実はもっと強うございます」
沈黙。ララティーナの瞳が、暗がりに潜む公爵の動揺を射抜く。
「あの倉庫の帳簿、偽物ですわね。
……あなたほど執念深い方が、あのような三流の工作をなさるとは思えません。
あれは、あなたを『財務卿を陥れた主犯』に仕立て上げ、口を封じるための死に装束ですわ」
公爵は低く笑った。
「証明は?」
「わたくしの直感と、煤ひとつついていないインクの匂いですわ。
……さて、公爵。お選びなさい。
監査局の掃除道具として無様に使い捨てられるか、わたくしの猟犬として、自分を売った主人の喉元に食らいつくか」
公爵は初めて本気でララティーナを、その背後に透ける「財務卿(父)」の影ではなく、彼女自身を見た。
「君は父を守りたい。
……いや、父が守るこの国を、別の形で作ろうとしているのか」
「当然ですわ。父上を汚そうとした罪、万死に値しますもの」
「……取引ですな」
「取引ですわ」
間。蝋燭の炎が爆ぜる。
「だが、私はもう詰んでいる。
公にされれば、どちらにせよ死罪だ」
「だからこそ、切られる前に証言を残しなさい。監査局の裏で、父上を『生贄』に選んだ黒幕の名を」
公爵の呼吸がわずかに乱れる。
恐怖ではない。この年若き令嬢が提示した、破滅の先の「逆襲」という可能性に、歪んだ興奮を覚えたのだ。
「……危険だぞ。帝国の“上”は、君が思うより深い」
「退屈よりは、よろしいでしょう?」
公爵は堪えきれず、声を上げて笑った。
「貴女は財務卿に似ている……いや、彼よりもずっと苛烈だ。
光栄ですな、こんな美しい死神に拾われるとは」
ララティーナは立ち上がり、振り返らずに言った。
「公爵。裏切りは期待しておりません。
……ですが、もしわたくしの手を噛むような真似をしましたら。
……その時は、わたくしが自ら、あなたを切り裂きますわ」
屋敷を出ると、冷たい夜風がララティーナの頬を撫でた。
門影からフォックスが音もなく現れ、漆黒の大型バイクのキーを差し出す。
「お見事でした、お嬢様。
次の『獲物』への道順も、既に頭に入れております」
「頼りにしておりますわよ、フォックス」
ララティーナはバイクに跨り、ドレスをなびかせてハンドルを握る。
「第一幕、完了ですわ」
エンジンの咆哮が夜の静寂を切り裂く。アクセルを全開に踏み込み、彼女は闇へと溶けていった。
「次は、監査局。……父上を汚そうとした罪、高くつきますわよ」




