■第33話「価値の値段」
夜は、静かだった。
だが、それは穏やかさではない。昼間とは違う種類の密度が、街の中に沈んでいる。人の数は減っているはずなのに、むしろ何かが増えているような感覚があった。
見えないものが動いている。
そんな空気だった。
カイルは、街の外れを一人で歩いていた。
特に理由はない。ただ、少し離れただけだ。
背後に気配があることは、最初から分かっている。
隠すつもりがないのか、あるいは意味がないのか。そのどちらかだ。
しばらく歩いたところで、足を止めた。
「いるだろ」
振り返らずに言う。
沈黙が、ほんの一瞬だけ落ちた。
そして。
「さすがね」
軽い声が、背後から返ってくる。
女だった。
足音はなかった。だが、そこにいる。
カイルが振り返る。
そこに立っていたのは、黒を基調とした服を着た女だった。派手さはないが、印象に残る。目が笑っているのに、奥が読めない。
「いつから気づいてた?」
「最初からだ」
「でしょうね」
女は楽しそうに笑った。
距離は取っている。だが、緊張はない。
敵意もない。
それが逆に、異質だった。
「用件は?」
カイルが聞く。
女は少しだけ首を傾ける。
「随分あっさりしてるのね」
「必要ないだろ」
「まあ、そうね」
納得したように頷く。
そして、一歩だけ近づいた。
その動きは自然だった。だが、距離の詰め方が妙に正確だった。
「単刀直入に言うわ」
女は言う。
「うちに来ない?」
軽い言い方だった。
だが、その内容は重い。
「どこだ」
「裏よ」
あっさりと答える。
「名前はいろいろあるけど、あなたが想像してる通りの“裏”」
つまり、裏組織。
正規ではない力。
ルールの外にある存在。
カイルは少し考える。
「何をする」
「自由よ」
女は即答した。
「あなたがやりたいことをやればいい」
「何もしたくなかったら?」
「それでもいい」
少しだけ笑う。
「その代わり、力は貸してもらうけど」
「いつだ」
「必要な時に」
曖昧なようで、明確だった。
縛らない。
だが、逃がさない。
そういう契約。
カイルは女を見る。
「王国とは違うな」
「全然違うわ」
女は即答した。
「向こうは管理したい」
「うちは使いたい」
その言葉には、一切の誤魔化しがなかった。
グレンなら嫌な顔をするだろう。
だが、カイルは特に気にしない。
「正直ね」
「嘘ついても意味ないでしょ?」
女は肩をすくめる。
「あなた、そういうの全部見抜くタイプでしょ」
「別に」
「そういうところよ」
くすっと笑う。
少しだけ、空気が緩む。
だが、それも計算だと分かる。
「あなたの価値はね」
女が言う。
「もう“個人”の枠を超えてるの」
言葉のトーンが変わる。
「一人で戦えるとか、そういう話じゃない」
「存在そのものが、バランスを崩す」
静かに言う。
「だから、みんな欲しがる」
王国も。
ギルドも。
回収屋も。
そして、裏も。
「奪い合いになる」
断言だった。
カイルは少し考える。
「なら、全部断ればいい」
単純な答え。
女は笑った。
「それができたら楽よね」
「できないのか」
「できるわよ」
あっさり言う。
「でも、その場合は」
一歩、さらに近づく。
距離が縮まる。
「全部が敵になる」
その言葉は、軽くなかった。
脅しではない。
事実として言っている。
カイルは黙る。
女は続ける。
「だから選ぶの」
「どこと敵対するか」
その発想は、王国の使者とは違っていた。
守るために選ぶのではない。
削るために選ぶ。
より現実的で、より危険な考え方。
「うちはね」
女が言う。
「敵を減らす側よ」
「どうやって」
「交渉と、力」
当然のように答える。
「場合によっては、潰すけど」
さらっと言う。
だが、それが本質だ。
カイルは空を見る。
夜の空。
変わらない。
だが、さっきよりも少し重く感じる。
(……面倒だな)
戦うだけの方が、まだ単純だった。
女が言う。
「すぐに決めなくていい」
「でも」
指を軽く立てる。
「時間はあんまりない」
それは王国と同じだった。
すでに動き始めている。
「あなたが動かなくても」
「周りが動く」
その通りだった。
カイルは視線を戻す。
「断ったら?」
「また来るわ」
即答だった。
「形を変えて」
「別のやつが?」
「ええ」
女は笑う。
「もっと面倒なのがね」
それは冗談ではない。
本気で言っている。
カイルは少しだけ考える。
選ぶ。
敵を減らす。
どこにも属さない。
全部、間違いではない。
だが。
「今はいい」
カイルが言う。
女は目を細める。
「保留?」
「そうだ」
短い答え。
女は一瞬だけ考えた。
そして、笑った。
「いいわ」
「それでいい」
あっさりと引く。
「今はね」
その一言に含みがある。
女は踵を返す。
数歩歩いて、止まる。
「一つだけ」
振り返らずに言う。
「あなた、戦うのは好き?」
突然の問いだった。
カイルは少し考える。
「別に」
「そう」
女は小さく笑った。
「じゃあ、そのうち嫌でも増えるわよ」
それだけ言って、去っていった。
気配が消える。
完全に。
カイルはその場に少しだけ立っていた。
(……なるほど)
王国。
裏。
回収屋。
まだ見えていないものもある。
全部が動いている。
自分を中心に。
(……面倒だな)
だが。
避けられない。
ゆっくりと、歩き出す。
街の灯りが近づく。
日常は、もう戻らない。




