施設診療所にあったDCZ、記憶を消す薬剤
四
「あったわよ。これ、見て」と佑香は分厚いファイルを手に持って、事務所に入ってきた。
「DCZってこれかしらね。デスクロロクロザピン。新しく開発された薬なんですって。量子科学研究所で開発されたものらしいです。何でも記憶を消去できる薬って書いてあるのよ。難しくて理解できないわ」
佑香は頭をポリポリと掻いた。
「その薬は一般的な薬なの? つまり国で認められた薬なのかしら?」と私の質問。
「ちょっと貸して……」
深川はその分厚いファイルを受け取って、ペラペラと何枚か捲り、しばらく読んでいた。その間に佑香はコーヒーを入れてきた。それに砂糖を入れても全然甘く感じなかった。
「この薬はまだ開発中のようだ。記憶を消すことができる画期的な新薬のようだよ」
私は疑問だった。「記憶を消すって何のための薬なんでしょうか?」
「あぁ、それはねぇ。PTSDであるでしょう? 外傷後ストレス障害よ。その場合にはそのストレスが外傷のために起こっているのだから、その外傷の記憶を消すってことなのよ。おそらく」
「あぁ、そういうことなのね」
何となく理解はできた。
「しかし、三年も前にできているのに、まだ厚労省からの認可を得られていない。つまり、一般的には使えない薬だ。これから治験が始まるとの計画書も記載されている」と深川の結論だった。
「しかも、そんな薬が何故、東日土木建設にあるの?」と私は疑問に思った。
「それは分からんなぁ。この資料の中には自立支援センターの綾尾医師の名前がちらほら出てきているようなんだ。綾尾とこの薬の開発者との間に何か関係があるのかも知れないぞ」
「……」私も佑香も言葉が出なかった。何が何だか分からないからだ。
でも、何か記憶を消すとか……胡散臭いものを感じた。施設の中での墨田彩芽、夫の春平……。記憶を消されたのか? などと自分だけで思った。
「だが、この薬だけで記憶が消される訳ではないらしい。これってhM4Diという化学的に合成される人工受容体(デザイナー受容体)とかいうもう一つの薬が必要とのことだ。安全な薬だと書いてある。超専門的だなぁ」
「よく分からないけど、この二つの薬で記憶を消すことができるって訳?」と佑香。
「施設内でその薬を飲ませているのかしら……」
その薬がまだ治験段階だとしても、診療所の綾尾医師を通じて施設の入所者に飲ませて薬の効果などを調べているとしたら、どうなんだろう。
もしかしたら春平なども飲ませられていた可能性もある。墨田彩芽の場合は十年も前なのでその新しい薬は手に入らない筈だ。でも記憶が戻りそうになった時に飲ませれば記憶が戻らないなんてこともあり得るのだろうか? などと私は勝手に考えていた。
「深川さん、この情報を華さんに伝えたいですよね? そうすればこの薬を実際に使っているのかどうか、誰に使っているのかなど分かるかも知れませんね?」と私は少し焦った。
「そうだなぁ。どうするか、それを少し考えよう。焦って華に連絡を取っていることが施設の誰かに知られると華が困ることになるかも知れないから、慎重に考えよう。それがバレると華の命だって危なくなるぞ」
深川は慎重だった。
「それに、DCZが薬品棚にあったというだけで、我々の推論が正しいかどうかだよね。その前にDCZが本当にデスクロロクロザピンだという保証はあるのか? 推論がどんどん進んでいるけど、どこまでが事実なのかをはっきりさせる必要があるね」と元刑事らしい言葉だった。
「でも深川さん、DCZってあれだけ調べても他には出てきませんよね? 私たちの推論は推論ですけど、何か辻褄は合っているように思えるんですよ」
私はそう答えた。自分自身の中では推論だとしても間違っているような気がしなかった。
「私は焦っているように思えるかも知れませんが、万が一、施設で華にもその薬を飲ませられたらって思ったら、そんなにゆっくりしていてもいいのかなって思うんですよ」
「うむ……。それもそうだなぁ。じゃぁ、華に連絡を取ろう。外から電話くらいはできると思うので……。親戚の不幸があったとか何とか言えば出て来られるんじゃぁないか」
「そうですね。深川さん、それでお願いします」と言って頭を下げた。
私はもちろん華のことが心配ではあったが、それよりも春平が自分と結婚したのに何故あの施設に入ったまま連絡をくれなかったのか、そして昔の恋人の墨田彩芽がいる施設に何故いるのか、私と交わした愛情の言葉は嘘だったのか、それを早く知りたい。
そしてDCZを飲まされて記憶をなくしているとしたらまだ春平を取り返せる。愛情が墨田彩芽に向いているとしたら仕方がない。諦めるしかないのだ。
*
その矢先、柳瀬から深川に連絡が入った。
警視庁科学捜査研究所により行われた本栖湖長崎半島の白骨遺体DNA鑑定で、その鑑識担当者に国民真理の会の信者が一人いたことが柳瀬らの調べで分かった。それは失踪したと考えられていた青城秀則の妻から警視庁に連絡が入った。
その内容は、
「この間、警視庁鑑識課の方がDNA鑑定のために主人が使っていた歯ブラシと毛髪を持って行ったのですが、その結果は出たのでしょうか?」という電話だった。その電話がなかったら分からなかったことだ。
「深さん、青城の自宅から歯ブラシと毛髪を持って行った鑑識のものとは、調べたらどうも女性らしいのです。置いて行った名刺には警視庁科学捜査研究所の星谷理恵とありましたが、そんな女性はいないのです。
DNA鑑定に携わっていた鑑識員と繋がりがあり、検体を意識的に取り換えた可能性があると考えています」と柳瀬はそう言った。
「その鑑識員は誰なのか分かったのか?」
「いや、目星はついていますが、確定的なものではありません。青城の奥様には星谷理恵と名乗ったと聞きましたが、そんな女性はいません。
しかし、疑わしい女性が一人いますが、今のところ名前は明かせません。その女性は周囲の噂では国民真理の会の集会へ時々参加し、同僚も何度か誘われていたと聞いています。本人は否定していますが、もう少し詰めてみます」
「そうなのか。そうすると我々の推測通り、検体が取り違えられた可能性が高いと思っていいのか?」
「いいと思いますが、発見された本栖湖長崎半島の遺体とその青城秀則の検体と山根沢春平の検体をもう一度採取し、DNA鑑定を行う必要があります。指輪も意識的に取り替えるのは相当な意志を持って行なったと思います。指輪を意識的に遺体に山根沢のものをはめ直したとすると、山根沢自身の意志も必要ですよね?」と柳瀬の何かを含んだ物言いだった。
「そうだなぁ。山根沢自身もその遺体は自分だと思わせたかったということなんだな?」
「そうなんですよ。深さん、もう少し待ってください。途中報告ということで……」
「分かった。はっきりしたら連絡を欲しい。頼む」と深川は念を押した。




