第30話 亀裂への接近
亀裂に近づく試みの日、第十二層の臨時拠点には、これまで以上に厳重な準備が整えられていた。安全装置――緊急時にロウとミラを即座に引き戻すための仕組みが、入念に設置されている。
「準備は、万全だ」セレンが、装置の最終確認をしながら言った。「異変があれば、すぐに引き戻す。無理は絶対にしないでくれ」
「分かっています」
俺とミラは、互いに頷き合い、亀裂のある場所へ向かった。これまで何度も訪れた場所だが、今日は、これまでとは全く違う緊張感があった。
亀裂に到着すると、薄紫の光は、相変わらず静かに漏れ出していた。これまでは距離を取って観察していたが、今日は、その距離を、少しずつ縮めていく。
「ゆっくり、慎重に」セレンが、後方から声をかけた。
俺たちは、一歩、また一歩と、亀裂に近づいていった。距離が縮まるにつれ、空気の重さが増していく。
『……また来たか』
低い声が、頭の中に響く。前回よりも、はっきりとした存在感だった。
「お前に、伝えたいことがある」俺は、亀裂に向かって声をかけた。「お前は、本当の『元』じゃない。アーシェルが消し切れなかった、傷の残滓にすぎない」
『……何を言っている』
「俺たちは、お前を抑え込むんじゃなく、お前が生まれた『傷』そのものを、縫おうとしている」
亀裂が、わずかに振動した。
『……傷を、縫う?』
「そうだ。お前の存在の根本にある、歪みそのものに向き合う」
しばらくの沈黙があった。やがて、声が再び響く。
『……それが、できるとでも』
「分からない。でも、やってみるしかない」
俺とミラは、さらに一歩、亀裂に近づいた。安全装置からの距離が、確実に縮まっていく。
「ロウさん、いきますか」
「はい」
俺は座標点を、ミラは時間の流れを、それぞれ亀裂そのものに向けて集中させた。これまでの「囲む」という間接的な方法ではなく、直接、亀裂に触れるための力だ。
「繋がれ……傷に」
「遅れろ……傷の流れを」
亀裂の表面に、淡い光が広がっていく。これまで見たことのない反応だった。
『……これは』
災厄の声に、初めて、はっきりとした動揺が感じられた。
『止めろ、止めるんだ……!』
亀裂が激しく振動し、薄紫の光が一気に強くなった。
「ロウさん、力が、押し戻されてます……!」
「踏ん張って、ミラさん!」
俺たちは、力を緩めずに、亀裂に向けて集中を続けた。だが、災厄の抵抗は、想像以上に強かった。
『我を、消すというのか……!』
「お前を消すんじゃない。お前が生まれた原因そのものを、治そうとしているだけだ」
『同じことだ……我が消えれば、お前たちの目的は果たされる……!』
亀裂の振動が、さらに激しくなる。地面が大きく揺れ始めた。
「セレン殿、これは危険だ!」ガレンが、後方で声を上げた。
セレンが、慎重に状況を見極めながら、判断を下す。
「もう少し、様子を見る。ロウ殿、ミラ殿、無理だと感じたら、すぐに教えてくれ!」
「まだ、大丈夫です!」
俺とミラは、互いに視線を合わせ、力を保ち続けた。これまでの修練の成果が、確かに、亀裂に変化を与えている。
「縫い始めている……!」セレンが、興奮した声で叫んだ。「亀裂の一部が、確かに、塞がりかけている!」
亀裂の表面、これまで広がっていた薄紫の光が、わずかに収まり始めていた。荷物持ちだった頃には想像もできなかった、傷を治すという行為が、確かに進み始めていた。
『……まだ、終わらせはしない』
災厄の声が、低く響く。亀裂の振動が、再び強くなった。
「まだ、続きそうです……!」
長い戦いの始まりを、俺とミラは、共に予感していた。
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