1537年。五月二週目 京をあとにする
五月二週目。
京へ来てから、幕府へ挨拶をし。
朝廷へも顔を出し。
町衆とも話し。
寺社から届いた挨拶にも、ひとまず角が立たないよう返事をした。
「……だいたい用事、終わりましたよね?」
八郎は宿で帳面を眺めながら言った。
「そうですね」
「ほな、あと一日か二日ぐらいで帰りましょうか」
「旦那様にしては、あっさりですね」
「いやいや。京、面白いですけど、ずっとおったら銭なくなりますよ」
「そこですか」
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帰る前に。
八郎は、京の町衆へもう一度顔を出した。
「これ、置いていきます」
「……これは?」
「五百万文です」
場が少し静かになる。
「五百万?」
「はい」
「何に使えと?」
「そこまで決めません」
家を直す。
道具を買う。
商売を立て直す。
職人へ仕事を出す。
皆で酒を飲む。
「飲み代でもええですよ」
「飲み代に五百万文は使いません」
「全部使ったら怒りますけどね」
笑いが起きる。
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「一個だけお願いがあります」
「何でしょう」
「帳面だけは残してください」
誰にいくら渡した。
何を作った。
何を買った。
どこへ使った。
「それさえ分かれば、こっちは細かく言いません」
「ずいぶん任せますな」
「僕が京のこと全部分かるわけないでしょう」
八郎はあっさり言った。
「京の人が、京で使う方がええと思います」
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「あと」
八郎は少し楽しそうになる。
「何か面白いものができたら教えてください」
「面白いもの?」
「何でも」
細工物。
紙。
扇。
器。
菓子。
衣。
本。
絵。
「すごい技術がいる高い物もええんですけど」
八郎が欲しいのは、それだけではない。
「堺の商人とか、博多の商人が普通に仕入れて、普通の人にも売れるぐらいの物が特に嬉しいです」
「なるほど」
一個一個が高すぎれば広がらない。
少し上等。
少し珍しい。
でも買える。
「そういうの、いっぱい欲しいんですよ」
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「旅したい人がおったら、それも言うてください」
「旅?」
「はい。旅費出します」
讃岐へ。
伊予へ。
九州へ。
「行った先で何か書いたり、描いたり、作ったりしてくれたら、それも見せてください」
現地の八郎商会へ持ち込めばいい。
「宿が足らんとか、道具がいるとか、何か必要なら相談してください」
「ずいぶん手厚いですな」
「その代わり、面白いもんお願いします」
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町衆の一人が、受け取った目録を見る。
「焼け出された家も多いですからな」
「そう聞いてます」
「五百万あれば、いろいろできるでしょう」
「全部家に使わんでもええですよ」
また焼かれるかもしれない。
今すぐ同じ場所へ大きな家を建て直すことが正しいとも限らない。
「暮らしがちょっと楽になるとか、商売再開できるとか。それで十分です」
「お気遣い、ありがたくいただきます」
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次に。
朝廷側にも使いを出した。
話は、先日山科言継とも相談した筆写の件である。
「京に筆写の出張所みたいなものを置かせてもらう話ですね」
「聞いております」
「とりあえず、三百万文置いていきます」
「三百万文?」
「しばらくのお給金と、紙とか墨とか、必要なものに使ってください」
ただし。
「こちらも帳面だけお願いします」
「それだけで?」
「はい」
誰が何を書き写した。
どれくらい時間がかかった。
紙がいくら。
給金がいくら。
「それだけ分かれば文句ありません」
係の者が深く頭を下げた。
「大層なお心遣い、ありがとうございます」
「仕事が京に残る方がええですから」
出来上がった写本だけを。
堺から船へ。
博多へ運ぶ。
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宿へ戻った八郎は、ようやく伸びをした。
「ほな」
「はい」
「帰りますか」
「ようやくですか」
「やることやりましたよ」
幕府。
朝廷。
町衆。
筆写。
商人。
「十分でしょう」
そこで八郎が姫君たちを見る。
「でも、皆さん買い物できました?」
「……買い物?」
「新婚旅行でしょう?」
一瞬。
姫君たちが顔を見合わせた。
「今さら思い出したんです?」
「いやいや、最初から覚えてましたって」
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「最後一日ぐらい町歩きます?」
八郎は楽しそうに提案する。
「着物でも、お菓子でも、なんか欲しいもの買って」
「旦那様」
「はい」
「もう帰りましょう」
「え?」
「八郎様、目立ちすぎです」
姫君の一人も頷く。
「七歳の大領主が姫四人連れて、幕府と朝廷に大金置いて、町衆にも銭配って、
今度は買い物して町歩きですか?」
「楽しそうじゃないです?」
「余計目立ちます」
「そうですか……」
少し残念そうだった。
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「なら帰りましょうか」
「それがよろしいです」
八郎は素直に頷いた。
「また来ればええですしね」
「次はもう少し静かに来てください」
「僕、今回も静かに来たつもりですけど」
「どこがです?」
姫君たちの声が揃った。
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こうして。
八郎は京をあとにした。
官位を求めず。
土地も求めず。
代わりに。
町衆へ五百万文。
筆写の仕事へ三百万文。
そして。
京との新しい細い糸を何本も残して。
一行は再び堺へ向かった。
「京、どうでした?」
夏姫が聞く。
「面白かったですよ」
「また来たい?」
「来たいです」
八郎は少し考えて笑った。
「でも次は、もうちょっと銭使わんようにしたいですね」
「無理でしょうね」
「なんでです?」
「旦那様ですから」
五月二週目。
八郎の最初の上洛は。
何かを持ち帰るだけでなく。
京に仕事と銭を置き、西国へ文化が流れてくる道を作って終わった。




