1537年。五月一週目 本を欲しがる七歳児
八郎たちが退出したあと。
山科言継は、しばらく置かれたままの献上目録を眺めていた。
「……面白い童やな」
近くにいた公家が笑う。
「二万五千貫置いていって、欲しいものが本ですからな」
「官位はいらん。土地もいらん。書き写させてくれ、と」
「本当に何も欲がないのでしょうか」
「さてな」
言継も、そこまでは信じていない。
人が動けば利が生まれる。
銭を出す以上、八郎にも何かしら得たいものはあるだろう。
「ただ、欲しいものの向きが変わっとる」
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博多が近頃賑わっているという話は、京にも届いていた。
「堺筋からも聞きますな」
「船が増えたとか」
「九州だけやない。四国もほぼあの童のところへ入ったそうや」
さらに中国地方にも勢力を広げている。
石見。
出雲。
備前。
大内家も八郎の傘の中にいる。
「それに、先ほど一緒におった姫君の一人は大内の姫であろう」
「そう聞いております」
「大内と縁があるなら、京の文化そのものを知らんわけでもあるまい」
大内家は、もともと京の文化との縁も深い。
その家の姫君まで八郎のそばにいる。
「つまり、あの童」
言継は少し笑った。
「自分がよう分からんからこそ、大事にせなあかんいうことだけは分かっとるんやろうな」
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「なら」
一人が冗談めかして言った。
「ほんまに誰ぞ歌のうまい者でも送ってみますか?」
「悪くないやろ」
「ほんまに?」
「旅費を出すと言うておったぞ」
讃岐。
高松。
善通寺。
金毘羅。
塩江の湯。
さらに伊予へ行けば道後。
九州まで渡れば別府や太宰府。
「旅して歌を詠んで、日記でも書いてこい、と」
「今の京におるより気楽かもしれませんな」
「それを大きな声で言うたら怒られるぞ」
「ははは」
京は、未だ落ち着かない。
家同士の争い。
寺社との軋轢。
焼けた町の再建。
「少し外へ出て、湯にでも浸かって歌を詠む」
「……わしも行きたいぐらいや」
「それこそ大きな声で言わん方がええです」
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「しかし」
言継が話を戻した。
「筆写の出張所いう話、あれは面白い」
「京で写して、博多へ送る?」
「そうや」
八郎は、博多から人を連れてきて全部持ち帰ると言わなかった。
京の人間を雇う。
京で仕事をさせる。
その代金を京へ落とす。
完成した写本だけを船で西へ送る。
「禄の少ない者もおる」
「おりますな」
「家柄はあっても、暮らしが楽とは限らん」
字がうまい者。
古書を読める者。
書写に慣れた者。
「そういう者に仕事を回せばええ」
「八郎商会から定期で銭が入るようになれば」
「それだけでも助かる家はあるやろ」
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「問題は、向こうがほんまに払うかですな」
その言葉に、言継が笑った。
「払うやろ」
「言い切りますか」
「あの若造、いや、童やな」
「七歳ですから」
「根っこは商人や」
二万五千貫を持ってきたことより。
言継には、そちらの方が印象に残っていた。
誰に仕事を渡せば銭が回るか。
京で雇えば京に銭が残る。
博多へ持ち帰るのは成果物だけ。
「そこまで考えて言うとる」
「領主より商人ですな」
「両方なんやろ」
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一人の公家が尋ねた。
「では、今後も付き合いますか?」
「悪くないと思う」
官位をくれ。
領地を認めてくれ。
誰それより上にしてくれ。
そういう要求ではない。
「本を写したい」
「歌を教えてほしい」
「旅をしてほしい」
言継は少し楽しそうに笑う。
「そちらの方が、こっちも気が楽や」
「向こうも本当は何か欲しいかもしれませんが」
「そらあるやろ」
「それでも?」
「最初から全部見抜こうとせんでもええ」
まずは付き合ってみる。
写してよい本を選ぶ。
筆写のできる者を紹介する。
希望する者がいれば、西国への旅も考える。
「それぐらいからでええ」
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そして言継は、八郎が最後に言っていたことを思い出す。
――京を博多にしたいわけではありません。
――博多は博多で、面白くしたいんです。
「……七歳であれを言うか」
「やはり変わった童ですな」
「変わっとる」
言継は頷いた。
「だが、嫌いやない」
京には銭が要る。
仕事も要る。
そして八郎は。
ただ銭を置くだけでなく。
京に仕事を残したまま、文化を西へ運ぼうとしている。
「なら、こちらも少し乗ってみるか」
「何にです?」
「七歳児の遊びにな」
言継の言葉に。
公家たちの間から、小さな笑いが起きた。
その日。
朝廷の片隅で。
八郎商会の京での最初の仕事が。
まだ帳面にも載らないところで、静かに始まりかけていた。




