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1535年6月4週目。河野家を退けた八郎軍が河野領付近まで追い立てる。河野軍は残存2500ほどで引き返す。

翌朝、河野軍は撤退を決めた。

 国人衆二千が離脱し、その後も農民兵の逃亡が続いたことで、八千いた軍勢は

 四千五百ほどまで減っている。

 一方、八郎軍は負傷者を除いても、七千五百ほどを維持していた。

「このまま戦っても勝ち目は薄い」

 河野家の将は、疲れ切った顔で言った。

「四千五百で七千五百を破るのは難しい。ここで軍を失えば、河野領そのものが危うくなる」

「西園寺家はいかがいたしますか」

「もはや助けられぬ」

 西園寺城は門を破られ、兵も千八百ほどまで減っている。

 それでも、河野軍まで失うわけにはいかなかった。

「慎重に引く。四千五百のうち、四千を連れて帰れれば上々じゃ」

 夜明けから、河野軍は少しずつ荷をまとめ始めた。

 前衛を残し、負傷者や荷駄を先に下げる。

 その後を本隊が追い、最後に殿軍を置く。

 しかし、河野軍が引き始めたことは、すぐに八郎軍へ知らされた。

「河野軍、撤退を始めました」

「では、追い立てましょう」

 八郎は即座に答えた。

「ただし、全滅させる必要はありません」

「河野領の外へ追い出せばよいのでございますな」

「はい。それと、兵糧の置き場を探しながら進んでください」

 八郎軍は正面から一気に襲いかからず、河野軍の左右へ騎馬兵を回した。

 側面から矢を射かけ、隊列が止まれば突撃するそぶりを見せる。

 河野軍が迎撃のために兵を向ければ、反対側から別の部隊が近づく。

「止まるな!」

「八郎軍が回り込んでくるぞ!」

 河野軍は休むこともできず、ひたすら北へ下がった。

 八郎軍は退路を完全には塞がない。

 逃げる道だけは残しながら、左右と後ろから圧力をかける。

「武器を捨てた者は追うな!」

「走れなくなった者は捕らえろ!」

「河野家の侍でなければ、無理に戦う必要はないぞ!」

 戦う意思の薄い農民兵は、次々と隊列から離れた。

 山道へ逃げる者。

 林の中へ武具を捨てる者。

 その場で座り込み、両手を上げる者もいた。

 河野家の侍たちは、逃亡者を止めようとした。

「戻れ!」

「敵前逃亡は許さぬぞ!」

 しかし、後ろから八郎軍の騎馬兵が迫る。

 逃げる兵を斬るために足を止めれば、自分たちが取り残される。

「もう構うな! 先へ進め!」

 河野軍は、兵を落としながら撤退を続けるしかなかった。

 八郎軍の別働隊は、河野軍が放棄した兵糧や荷駄も探していた。

「米俵がありました!」

「運べるものは回収してください。残りは河野軍が戻って使えないようにします」

 米や味噌は八郎軍へ運び、持ち出せない荷車や乾草は焼いた。

 煙が上がるたび、河野軍の兵は後ろを振り返った。

「兵糧まで取られたぞ!」

「このままでは、城まで持たぬ!」

 さらに八郎軍は、捕らえた者から河野軍の休憩場所や、水場、次の兵糧置き場を聞き出した。

 その先へ騎馬兵を回し、河野軍が休もうとするたびに矢を射かける。

 殺すためではない。

 座らせず、眠らせず、隊列を保たせないためだった。

 河野軍が八郎領から出る頃には、四千五百いた兵は、二千五百ほどまで減っていた。

 討ち取られた者ばかりではない。

 逃亡、投降、負傷、離脱によって、軍がばらばらになったのである。

「追撃はここまでです」

 八郎は河野領との境で、兵を止めた。

「深入りすれば、こちらの隊列も伸びます。今回は西園寺家をまとめることを優先します」

 その後、八郎軍は道中で捕らえた河野兵を一か所へ集めた。

 武具を取り上げ、名前、村、身分を帳面へ書かせる。

「わしらは、殺されるんか」

 捕虜の一人が、恐る恐る尋ねた。

「殺しませんよ」

 八郎は当然のように答えた。

「皆さんには、飯を食べて帰っていただきます」

「敵兵やぞ、わしら」

「命令されて来ただけの農民兵も多いでしょう」

 大鍋から汁物が配られ、握り飯が山のように積まれた。

 捕虜たちは半信半疑のまま、温かい飯を口へ運んだ。

「河野家まで攻めるつもりなんか」

「いずれ、お話をしに行きます」

「話を、兵を連れてしに来るんやろ」

「話がまとまらなければ、そうなりますね」

 八郎は隠さなかった。

「その時は、河野領の村々でも市を立てます。米や野菜は、必要なら普段の三倍で買います」

 農民や侍、城が抱える借金も調べる。

 利息を下げ、品を買い、順番に返済していく。

「皆さんの村へ戻ったら、借金を見てほしい、市で買い取ってほしいものがある、

 という話をまとめておいてください」

「また攻めてくる相手に、頼み事をせえと言うんか」

「攻めずに済むなら、その方がよいですからね」

 武具は返さなかった。

 しかし捕虜たちには、一人ずつ握り飯を二つ持たせた。

「道中で食べてください」

「ほんまに帰ってええんか」

「はい。ただし、次に戦へ出る時は、よく考えてください」

 捕虜たちは何度も振り返りながら、それぞれの村へ帰っていった。

「八郎軍に捕まったが、殺されなかった」

「武器は取られたが、飯を食わされた」

「次に来た時は、米を三倍で買うと言うていた」

 その話は、河野領の村々へ少しずつ広がっていく。

 三郎は、帰っていく捕虜たちを見ながら首をかしげた。

「何やろな。戦に勝ったのに、敵へ握り飯を持たせて帰す軍というのも」

「次に河野領へ行った時、その握り飯の話が役に立ちます」

「やっぱり、もう次を考えてるやないか」

「せっかく勝ったんですから、次につなげないともったいないでしょう」

 河野軍は二千五百ほどまで減らされ、領内へ退いた。

 八郎軍は敵を皆殺しにせず、兵糧を奪い、武具を回収し、捕虜へ飯を食わせて帰した。

 河野家の兵たちは、敗れた悔しさよりも先に、一つの疑問を抱いていた。

「八郎軍とは、いったい何をしに来る軍なのじゃ」

 戦いに来たはずなのに、最後まで飯を配っている。

 その得体の知れなさこそが、河野領へ持ち帰られた、最も大きな恐怖となったのであった。

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