1535年6月2週目。日向で仮帳面。四国へ渡る前に船の調整。時間や乗る船をわける徹底ぶりに周囲が感心する。
六月二週目、日向の港に設けられた陣屋で、八郎は四国へ渡る前の帳面合わせを行っていた。
「今回は正式な締めではなく、仮締めでございます」
八郎がそう告げると、帳面役が今週の数字を読み上げた。
「八郎領全体の利益は、およそ三千万文でございます」
九州各地の市、農業、加工場、湯浴み場は、八郎たちが日向へ移動している間も変わらず動いていた。
「それから、先週、肥前の四か所で農民衆の借金がすべてなくなりました。
その御礼として、市への持ち込みや寄付が、合わせて四百万文ございます」
「ありがたいことですね」
借金を返し終えた農民たちは、余った米や野菜、薪などを市へ持ち込み、
一部を八郎商会へ差し出していた。
八郎は無理に寄付を求めたつもりはない。
それでも、
「今度は自分たちが市を支えたい」
と考える者が増えた結果だった。
「交易利益は、今週一千万文となりました」
「ついに一千万文ですか」
「はい。豊後や薩摩との荷の流れが整い、日向へ兵糧や物資を運んだ帰りにも、
空荷を減らせております」
領内の利益三千万文。
肥前からの四百万文。
交易利益一千万文。
そこから、縁談がまとまりそうな三組へ渡す祝儀四十五万文を引く。
「始終ご縁がありますように、の四十五万文ですね」
「三組合わせて、でございます」
帳面役は念を押した。
「一組四十五万文ではございません」
「分かっておりますよ」
「八郎様は、隙があれば増やそうとなさいますから」
周囲に笑いが起こった。
「そして、四国へ持っていく分として、五千万文を別に計上してください」
帳面役の筆が止まった。
「五千万文でございますか」
「はい。ただし、すべて銭で持っていくわけではありません」
兵糧、味噌、塩、干し魚。
鍋、釜、包丁、農具。
市を開くための布、器、帳面、秤。
城や国人衆との交渉に使う現金。
けが人の治療に必要な薬や布。
「軍を動かすための費用だけではありません。市の立ち上げ、炊き出し、
仕入れ、借金の整理まで含めた五千万文です」
「物資として持ち出す分も、値をつけて帳面へ記載いたします」
「お願いします。何をどれだけ四国へ持ち込んだか分からなくなると、
後で利益も損も計算できませんからね」
帳面の仮締めが終われば、八郎たちも海を渡る。
すでに第一陣二千人は南予へ上陸し、現地の国人衆や八郎商会の者たちと、
市の立ち上げについて話を進めていた。
「ただし、僕たち兄弟や各家の当主が、同じ船へ乗ることは避けます」
「船を分けるのでございますか」
「はい。乗る時刻も少しずつずらします」
八郎、兄たち、島津本家や分家の当主。
それらが一隻へ固まれば、その船が嵐や事故で沈んだ時、軍全体の指揮を執る者が一度にいなくなる。
「戦で負ける以前に、船が沈んで終わりましたでは、話になりませんからね」
「縁起でもないことを申されますな」
「考えたくないことほど、先に考えておくべきです」
八郎は、兄弟や当主を複数の船団へ分けるよう命じた。
船と船の間隔も空ける。
一隻が座礁しても、別の船まで巻き込まれないようにする。
出航の順番もずらし、先に着いた船が港の状態を確認してから、次を入れる。
「私と夏姫様、三郎兄様も、同じ日に渡ります。ただし船は別々です」
夏姫が少し不満そうに八郎を見た。
「私は、八郎様と同じ船でも構いませんのに」
「それは駄目です」
八郎はすぐに首を横へ振った。
「海を甘く見てはいけません。陸の道なら立ち止まることもできますが、
海では駄目な時は本当にどうにもなりません」
「八郎様のおそばにいた方が、何かあった時にもお助けできると思います」
「同じ船が沈んだら、二人とも助かりませんよ」
「それは、そうでございますが」
「夏姫様には、夏姫様の船で、市を立ち上げる姫君や帳面役を見ていただきます。
僕とは伊予の港で合流しましょう」
夏姫はしばらく納得しきれない顔をしていたが、最後にはうなずいた。
「承知いたしました。ですが、必ず頑丈な船へお乗りくださいませ」
「もちろんです」
三郎が横から口を挟んだ。
「一番沈んだら困るんは、八郎の船やからな」
「そうですね。僕がいなくなれば、帳面も外交も止まりかねません」
「自分で言うんやな」
「事実として考えておかなければならないでしょう」
八郎を乗せる船は、積荷を減らし、船頭も経験のある者を選ぶ。
護衛船も前後につける。
ただし、八郎の船だけを目立たせれば、敵に狙われる可能性があるため、
外から見て分からないようにする。
「万全ということはありませんが、できる限りのことはして渡りましょう」
「最近は、戦で負ける心配をされることが減りましたな」
重臣の一人が言った。
「相手の兵数や援軍を考えれば、南予で大きく負ける可能性は低いと思っております」
八郎は正直に答えた。
「ですが、移動中の事故は、兵の多さでは防げません。嵐も潮も、八郎家だから
避けてくれるわけではありませんからね」
「勝てる戦ほど、そこへ着くまでを慎重にするということでございますな」
「はい。戦う前に当主や兄弟を失うほど、愚かなことはありません」
周囲の者たちは、静かにうなずいた。
「さすが八郎殿じゃな」
島津の者が感心したように言う。
「二万の軍を動かしながら、船一隻沈む可能性まで考えておる」
「怖がりなだけですよ」
「その怖がりが、多くの者を生かすのでしょう」
帳面役は、四国へ持ち出す五千万文の欄へ印をつけた。
銭も、物資も、兵も、船も。
すべてを一つに集めすぎず、順番に海を渡す。
「では、仮締めはこれで終わりです」
八郎は帳面を閉じた。
「第一陣からの報告を確認し、僕たちも順番に伊予へ向かいましょう」
二万一千の軍勢が海を渡る。
しかし、その始まりは大軍による一斉上陸ではなかった。
二千人ずつ、船を分け、当主を分け、時間をずらす。
八郎は戦で勝つ前に、まず全員が無事に四国へ着くことから考えていたのであった。




