1535年5月1週目。帳面合わせ。2700万文の利益。肥後の侍の借金残り2400万文を償却。
五月一週目を迎え、八郎の屋敷では恒例の帳簿合わせが始まっていた。
豊後へ向かった兄たちからも、大友商会の市と芋の作付けは、
おおむね自分たちだけで回せるところまで来たとの知らせが届いている。
「兄様方も、もう少ししたら帰ってくるでしょう」
八郎はそう言いながら、今週の帳面を開いた。
「それでは、五月一週目の数字を確認します」
帳面役が立ち上がり、各地から集められた数字を読み上げた。
「領内の市、加工場、農業、そのほかの事業を合わせた今週の利益は、二千七百万文でございます」
「ついに二千七百万文ですか」
「また、交易による利益も少し増え、六百七十万文となりました」
大友領との取引が増え、肥前や島津領から入ってくる品物も安定している。
反対に、八郎領からは紙、布、鍋、農具、加工した魚、芋焼酎などが各地へ運ばれていた。
「特に大きな問題はなさそうですね。では、今週返す借金を決めましょう」
八郎は別の帳面へ目を移した。
「肥後に残っている侍の借金が、二千四百万文あります。今週は、これをすべて返します」
広間に集まっていた肥後の者たちが、一斉に顔を上げた。
「二千四百万文を、すべてでございますか」
「はい。これで肥後については、農民、侍が抱えていた借金が、すべてなくなります」
その言葉が広間へ広がると、肥後の武士たちから大きな歓声が上がった。
「ありがとうございます!」
「まさか我らの代で、侍の借金がすべて消えるとは!」
「八郎様、本当にありがとうございます!」
中には、その場へ手をつき、涙を流す者もいた。
凶作を乗り越えるための借金。
武具をそろえるための借金。
城を修繕するための借金。
一つ一つは必要に迫られて負ったものであっても、高い利息によって何年たっても
元本が減らなかった。
その重荷が、今週ですべて消えるのである。
「しかし、とんでもない勢いで返しておりますな」
家臣の一人が、並べられた帳面を見ながら言った。
「今後も毎週二千七百万文ほどの利益が出て、それを順番に借金返済へ回すのであれば……」
男は指を折って数えた。
「借金の残っている城が三十三か所なら、三十三週で一巡するということでございますか」
「単純に計算すれば、そうなりますね」
もちろん、すべての週で二千七百万文を丸ごと借金返済に使えるわけではない。
市の修繕、交易路の整備、新しい仕事への投資、南予での炊き出しなどにも銭が必要だった。
それでも、一年前には見えなかった完済までの道筋が、今は数字として見え始めている。
「肥前には、侍の借金が一つのまとまりにつき八百万文ほど残っております。
それが十四か所ほどです」
「それも含めれば、まだまだ大きな額でございますな」
「はい。ただ、このまま一年ほど回し続ければ、かなりのところまで片づけられると思います」
広間から、感嘆の声が漏れた。
「恐ろしい話ですな。一年で各地の城と侍の借金が消える見込みが立つとは」
「これなら、大内を攻めても問題ないのではありませんか」
別の家臣が身を乗り出した。
「四国へ兵を出す余裕も出てきますな。いよいよ八郎様の野望が動き始めますか」
「いやいや、まだです」
八郎はすぐに首を横へ振った。
「借金を返せることと、戦を始めてよいことは別です。戦になれば、兵糧も船も武具も必要になります。
今まで通り市を回しながら、それとは別に戦の費用を出さなければなりません」
家臣たちは、少し残念そうにしながらも納得した。
「ああ、そういえば風呂釜については、ほぼ全域へ行き渡りましたね」
「はい。新しく風呂釜を入れるための大きな費用は、今後しばらく必要ありません」
これまで多くの銭と人手を使って進めてきた風呂釜の設置は、一通り終わっていた。
今後は修繕や交換の費用だけで済む。
「あとは、高級な湯浴み場をどれほど増やすかですね」
一般の者が安い銭で使える風呂とは別に、食事や酒、休憩場所を備えた高級な湯浴み場も、
いくつかの町で試している。
そこでは普通の風呂より多くの利益が出る一方、建物の整備や人の雇い入れにも銭がかかる。
「各地で高級な湯浴み場を作ったり、職人を育てたりする費用がありますので、
その分は今まで利益へ大きく入れておりませんでした」
「では、実際の利益は、もう少し多い可能性があるのですか」
「あると思います。ただ、改めてきちんと計算し直す必要がありますね」
建物や釜へ使った銭を、すべてその週の費用として見るのか。
何年も使える物として、少しずつ費用へ振り分けるのか。
事業が増えたことで、帳面の付け方も少しずつ複雑になっていた。
「その辺は、どこかの帳簿合わせで一度整理しましょう。今は、順調に回っていることを
喜んでおけばよいと思います」
「肥後の借金も、すべて消えましたしな」
「はい。ただし、本当に大事なのは、この順調な状態を毎週続けることです」
八郎は広間の者たちを見回した。
「市を一度成功させることより、来週も再来週も同じように回す方が難しいんです。
仕入れを止めず、料理の味を落とさず、帳面をごまかさず、借金を順番に返していく。
それを続けてください」
大内との戦が始まっても、農民は腹を空かせる。
兵を集めても、田畑を耕す者がいなくなれば領地は弱る。
四国へ船を出しても、領内の市が止まれば、戦に勝つ前に八郎家の仕組みそのものが崩れてしまう。
「戦になっても、この商いと返済の流れは止めません」
八郎は静かに言った。
「兵を出す者と、市を回す者をきちんと分けます。戦の最中でも農民から仕入れ、
借金を返し、暮らしを少しずつよくしていきます」
「承知いたしました」
「戦に勝つだけでは足りません。戦をしていても領地が豊かになる形を作らなければ、
長くは続きませんからね」
家臣たちは、改めて深く頭を下げた。
肥後の侍の借金は、今週ですべて消えた。
残る城と侍の借金にも、一年ほどで返済できるという見通しが立ち始めている。
大内、博多、そして四国。
八郎家の目が九州の外へ向かう日も近づいていた。
しかし八郎がまず求めたのは、兵を集めることではない。
来週も変わらず市を開き、品物を仕入れ、帳面を合わせることだった。
「では、来週も粛々とやっていきましょう」
八郎が帳面を閉じると、広間の者たちは力強くうなずいた。




