1535年4月2週目。一方の豊後大友領。一億文の市と、姫君たち
その頃、豊後へ向かった八郎の兄弟たちは、大友家の館で手厚いもてなしを受けていた。
「遠方より来てもろうたのです。今日は堅い話ばかりではなく、まずは我らの国を見てくだされ」
そう言われ、案内されたのは大友家の館と、そこから続く港町だった。
館は大きく、調度品もきらびやかだった。
だが、兄弟たちが最も目を奪われたのは港の方だった。
沖には大小の船が浮かび、荷を積んだ小舟が絶えず岸と船の間を往復している。
米俵。
塩。
布。
陶器。
木材。
見慣れない南蛮の品まで、次々と蔵へ運び込まれていた。
「これほど栄えた港は、初めて見ましたな」
兄の一人が感嘆すると、大友の重臣が満足そうに笑った。
「博多は、さらに大きいと聞くぞ」
「博多は博多で見事でしょう。されど、ここはここで負けてはおりませぬ」
豊後の港は、瀬戸内や畿内へ向かう交易の要だった。
九州の南だけを相手にしていた頃とは、行き交う品の量が違う。
「ここが、我が家の生命線です」
大友の重臣は、荷を下ろす人足たちを見下ろしながら言った。
「この港へ、八郎殿の領地で行われている農業と市の仕組みが入れば、さらに国力が増す」
「港をさらに栄えさせる、というよりは、国の底を持ち上げる話ですな」
八郎の兄が答えた。
「農民の暮らしが安定すれば、国への恨みも減ります。借金に追われず、腹を満たし、
明日の種籾を心配せずに済む。それだけでも忠誠は変わりましょう」
「憂いが減ればこそ、八郎殿と大友家とで筑前、筑後をどう分けるかという話にも、現実味が
出てくるわけや」
大友の者たちは、隠そうともせず笑みを浮かべた。
「正直に言えば、笑いが止まりませぬ」
「そこまで言われますか」
「八郎殿の仕組みを、こちらの領内で立ち上げてもらえるのですぞ。喜ばぬ方がおかしい」
そこで重臣は、兄弟たちを見回した。
「しかし、我らばかりが得をしては釣り合わぬ。豊後から四国、瀬戸内へ抜ける交易路は、
我らが力を尽くして開きましょう」
「それは、八郎も喜びます」
「それから、姫君たちとの御縁もな」
その一言で、兄弟たちの顔が一斉にこわばった。
「我々は、市を立ち上げるために来たのでございます」
「分かっておる」
重臣は楽しそうに笑った。
「島津の本家と分家との縁談で、兄上方がいろいろ苦労された話は、こちらにも届いておりますぞ」
「どうか、あまり楽しまないでいただきたい」
「いや、実に楽しい」
真顔で言われ、兄弟たちは深くため息をついた。
・・・・・・・・・・・・・
館へ戻ると、いよいよ市の立ち上げについて具体的な話が始まった。
「して、どれほどの期間で形になりますかな」
「一月で、こちらが直接手を入れられるのは、三万五千石ほどのまとまりを八つ、
多くて十ほどでしょう」
「それだけか?」
「それだけ、と申されましても、我らも八郎領に仕事を残しておりますので」
大友の領地すべてを、八郎の兄弟だけで整えることはできない。
まず八つか十の地域で、実際に市を立ち上げる。
そこへ大友家の家臣たちにも入ってもらう。
役人との話の進め方。
寺社や土地の有力者との調整。
店を並べる場所。
品の仕入れ。
借金証文の扱い。
一通りのやり方を、実地で覚えてもらう。
「残りは、大友家の方々に進めていただく形です」
「一つ二つ目は、しがらみも多く難しいでしょうな」
「はい。ですが、一度流れを見ていただければ、大友家の家臣だけでもできます」
「八郎商会が、そのまま入るわけではないのだな」
「ここでは、大友商会として動かしていただきます」
八郎商会の支店を増やすのではない。
大友家が自力で回せる仕組みを作る。
そうでなければ、八郎側が手を引いた途端に止まってしまう。
「ただし、市は開けば終わりではありません」
兄の一人が、持参した帳面を広げた。
「三万五千石ほどの地域一つにつき、市の設営、屋台や倉、長屋などをそろえれば、
少なくとも三百六十万文ほどは必要になります」
「三百六十万文……」
「これを二十か所。最初の仕入れまで含めれば、一億文を下ることはないでしょう」
「一億文とは、十万貫ほどか」
部屋の空気が少しだけ重くなった。
港を見て笑っていた者たちも、さすがに黙り込む。
「金額だけ聞けば、大きく見えます」
八郎の兄は、落ち着いて続けた。
「ですが、返ってくる金です。市の売上からも返りますし、農民たちの借金を処理することでも
意味が生まれます」
「借金を処理する?」
「我らの領内では、三万五千石ほどの地域一つにつき、農民が抱える借金はおおむね
一千万文前後ございました」
「それほどか」
「二十か所なら、およそ二億文です」
大友の者たちが顔を見合わせた。
「市を立ち上げ、品を適正な値で買い取る。その代金の一部を借金の返済へ回し、
証文を一枚ずつ消していくのです」
「一億文を使い、二億文分の借金を消す、と」
「単純な引き算ではありませんが、そのぐらいの効果は見込めます」
農民の借金をただ肩代わりするわけではない。
働く場所を作る。
作物や手仕事の品を買い取る。
市で売る。
そこで生まれた銭を、借金の返済にも回す。
返済が終われば、証文を破る。
「捨てられていた物にも値を付けます。ほかの市をむやみに潰さぬよう、
売る物や場所も分けます。屋台や長屋を作る仕事も増える」
「銭を配るのではなく、銭が回る道を作るわけか」
「はい」
「頭では分かる。今聞いていても、話はすっと入ってくる」
大友の重臣は、帳面を見ながら唸った。
「されど、これを現場でやれと言われれば、何から始めればよいか分からぬ者が大半でしょうな」
「難しいと思います」
八郎の兄は、あっさり認めた。
「我らは混ぜ飯を売るところから始めました。腹を空かせた者へ安く飯を出し、
その者たちに働いてもらい、売れる物を探し、少しずつ今の形になった」
最初から一億文の計画があったわけではない。
一つの困り事を解決した結果が、次の商いにつながった。
その積み重ねを知らぬ者へ、いきなり大金を出せと言っても、理解されにくい。
「一億文を出せば、これだけのことができますと言われても、普通は何を申しておるのだと
思うでしょう」
「それを、大友の殿は聞いてくださった」
「ですから、我らは実行するだけです」
「その実行をしてくれることが、何よりありがたいのだ」
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話が一段落したところで、再び姫君たちの話が持ち出された。
「姫君たちにも、市を立ち上げる様子を見せるのであろう?」
「八郎の考えでは、そのつもりです」
八郎領から来た姫君たちは、ただ館の奥で縁談を待つだけではない。
市の準備。
帳面の確認。
品の選別。
農民たちへの説明。
それぞれにできる仕事を任されていた。
「働く姿も見ていただいた上で、よいと思ってくださる殿方がおられれば、八郎も喜ぶでしょう」
「我らの重臣の子息や、一門の若者たちと、少しずつ顔を合わせてもらおう」
「入れ替わり立ち替わりとなれば、姫君たちも我々も忙しくなりますね」
「若く、愛らしい今のうちに、よい縁が見つかれば先々もよかろう」
「それは、否定できません」
兄弟たちも、そこは素直に認めた。
姫君の一人が、少し離れたところから話を聞いていた。
「館でちょこんと座っているより、市で働いている方が楽しいですけどね」
「そんなに市の仕事が面白いか」
「はい。特に借金の証文を破る時が」
姫君は両手で紙を破く仕草をした。
「びりびりと破いたら、農民の方が泣いて喜ぶでしょう」
「うむ」
「そのあと、さっきまで疑っていた方々が、急に八郎様を拝み始めるのも面白いです」
部屋が静まり返った。
「……姫君は、どこに楽しみを感じておられるのですか」
「人の手のひらが返るところです」
「縁談の前に、そこはあまり殿方へ申されぬ方がよいでしょうな」
「なぜです?」
姫君が不思議そうに首をかしげる。
大友の者たちは笑い、八郎の兄弟たちは額を押さえた。
港と市。
一億文の出資。
二億文の借金。
そして、姫君たちの縁談。
豊後で始まろうとしているものは、商いだけではなかった。




