1535年4月2週目。八郎は久しぶりに落ち着く。領内の視察に精を出す。豊かさは、守らなければ消える
肥前から戻ってからというもの、八郎の周囲はしばらく慌ただしかった。
大友との取り決めを整理し、兄たちの一部を豊後へ送り出す。
市を開く場所を定め、寺社や町衆との話を進め、必要な銭や物資を計算する。
戦をして領地を奪うよりも、その後に商いの仕組みを根づかせる方が、はるかに手間がかかる。
ようやく大きな指示を出し終えた頃、八郎は久しぶりに領内を見て回ることにした。
散策といっても、遊び歩くわけではない。
市の場所。
寺や神社へ続く道。
井戸の位置。
火除けのために広げた道幅。
町中へ置いた水桶。
荷を運ぶ牛馬が詰まりやすい曲がり角。
役人や町衆へ頼んでいた対策が、実際にどうなっているのかを自分の目で確かめる。
八郎にとっては視察であり、町の者にとっては、五歳の領主がまた歩き回っているという、
すっかり見慣れた光景でもあった。
「八郎様が、こうしてのんびり町を見て回ってくださるのは、ありがたいことですな」
案内役を務めていた年配の町人が言った。
「のんびりではありませんよ。一日中、あちらこちらへ連れ回されております」
「あっ、これは言葉が過ぎました。申し訳ございません」
「冗談です」
八郎が笑うと、町人もほっとしたように頭を下げた。
「されど、八郎様が町を歩かれている時が、一番平和に感じるのでございます」
「私が戦場へ行っていないからですか」
「それもございますが……」
町人は左右の店先を見回した。
布を売る店。
塩や干物を扱う店。
南蛮渡りの小物を並べる商人。
以前なら一部の武士や商人しか買えなかった品を、町人たちも少しずつ手に取れるようになっていた。
「八郎商会のおかげで、よい品が増えました。品だけではございません。遠くの国の話や、
面白い商いの話も入ってまいります」
「情報も品物の一つですからね」
「衣食住が、年々満たされております。正直に申しますと、これに慣れてしまえば、他の領主様の
下では満足できぬ者も増えるでしょうな」
八郎は、歩みを少し緩めた。
「それは、よい面もあれば、悪い面もありますね」
「悪い面、でございますか」
「八郎商会も、私の家も、永遠に続くとは限りません」
町人がぎょっとした顔をした。
「何をおっしゃいます。八郎様は、まだ五歳ではございませんか」
「五歳だからこそです」
八郎は平然と答えた。
「流行り病にかかるかもしれません。戦で負けるかもしれません。家中が割れるかもしれません。
今の豊かさを維持するには、領地も商いも守り続けなければならない」
「そのような不吉なことを……」
「不吉だから考えない、では困るのです」
八郎の家には、まだ多額の借金が残っている。
商いで利益が出ているとはいえ、道を造り、蔵を建て、兵を養い、新たな市を開けば、
銭はいくらあっても足りない。
大友との関係も安定したわけではない。
今は兄たちに豊後へ向かってもらい、市や寺社を立ち上げる手伝いをさせている。
それが友好につながるのか。
それとも、いつか争いの種になるのか。
まだ誰にも分からなかった。
「私の家がなくなったとしても、八郎商会の仕組みだけは残ってほしいと思っています」
「仕組み、でございますか」
「商人が安心して品を運べること。市で法外な銭を取られないこと。寺社や町が協力して道や井戸を
整えること。飢饉になれば、蔵から食を出せること」
八郎は、通りの先にある市を見た。
「誰が領主になっても、それを壊す方が損だと思える形にしておきたいのです」
「八郎様が、日の本をお取りになるというお話ではなく?」
「それも、できるなら面白いですけどね」
八郎があっさり言うと、周囲の者たちは顔を見合わせた。
「まだ、おぼろげな話です。ですが、日の本のあちこちに同じような商会があり、誰もが
ある程度の衣食住を得られるなら、今より幸せになる者は増えるでしょう」
「それが八郎様の野心でございますか」
「野心というほど、形になってはいません。まだ五歳ですから」
「五歳の御方が申される話ではございませんな」
「自分でもそう思います」
町人たちが笑った。
笑いが収まったところで、八郎は道沿いに訓練場へ向かう武士や町人兵の姿を見た。
「皆さんに日々訓練へ出てもらっているのも、そのためです」
「商いが盛んになっても、兵の鍛錬を欠かしてはならぬ、と」
「今の豊かさは、私たちが強いという前提の上にあります」
道が整っている。
蔵に米がある。
市に品が集まる。
それは、奪おうとする者を追い返せるから成立している。
守る力がなければ、積み上げたものは一度の戦で失われる。
「衣食住が満ちれば、もっと八郎商会に何かしてほしいと思う者も出るでしょう」
町人が言った。
「ですが、八郎様がこうして説明してくださるから、わしらも、してもらうばかりでは
いかんと思えます。自分らも働き、町を守らねばならんと」
「そう思っていただけるなら、ありがたいです」
「とはいえ、今や九州の大半が八郎様の勢力下にあるのでしょう?」
「だから安心だとは限りません」
八郎はすぐに首を横へ振った。
「本州や四国で、急に強い勢力が現れるかもしれません」
「近畿も四国も、小勢力同士の争いが続いていると聞きます。まだ先ではございませんか」
「私たちも、二、三年前までは小さな勢力でしたよ」
その言葉に、町人たちは黙った。
八郎の家が、ここまで大きくなると予想していた者など、ほとんどいなかった。
伸びる勢力は、驚くほど短い間に伸びる。
「領地を奪われるだけなら、まだよいのです」
「よいのでございますか?」
「新しい領主が、今の仕組みを残し、町を豊かにしてくれるなら、私としても奪われがいがあります」
「奪われがいという言葉は、初めて聞きました」
「ですが、町を焼き、蔵を壊し、民を連れ去るような者には渡せません」
八郎の声から、わずかに笑みが消えた。
「私たちが何年もかけて整えたものを、戦の勢いだけで壊されては、たまったものでは
ありませんからね」
「そのために、強くならねばならぬと」
「はい。戦をしたいから強くなるのではありません。戦を仕掛けられないために、
戦を仕掛けられても壊されないために、強くなるのです」
町の通りには、商人の声が響いていた。
荷車が行き交い、子どもたちが走り、店先では夕餉の品を選ぶ者がいる。
かつてなら、当たり前ではなかった光景だった。
だが、豊かさに慣れれば、人はそれを永遠に続くものだと思ってしまう。
八郎は、市の入口で立ち止まった。
「豊かになったから、もう大丈夫なのではありません」
隣にいた者たちへ、そして自分自身へ言い聞かせるように続ける。
「豊かになったからこそ、守るものが増えたのです」
町人たちは静かに頭を下げた。
五歳の領主は、その様子を見届けると、すぐに次の道へ歩き始めた。
「では、次は神社の裏手を見に行きましょう。雨が降ると道が崩れると聞いております」
「まだ回られるのでございますか?」
「のんびりした視察ですからね」
「八郎様ののんびりは、わしらの一日仕事でございますな」
町人の言葉に、今度は八郎も声を上げて笑った。
平和な一日だった。
だからこそ、その平和が何の上に成り立っているのかを、忘れてはならなかった。




