1535年3月4週目。兄上達の帰宅。男たちの逃げ場は風呂だけ。風呂場にて兄上達が八郎に泣きながら相談。
三月四週目。
肥前に残っていた一郎から七郎までの兄たちが、ようやく本拠へ帰ってきた。
市と寺社市は十四の束すべてで、ひとまず動き始めた。まだ雑なところは多いものの、
地元からの仕入れも増え、借用証文を消す流れもできている。
仕事としては上々だった。
ところが館へ戻った一郎、二郎、三郎、四郎の顔は、戦から帰った時よりも疲れて見えた。
「八郎」
一郎が真剣な顔で近づく。
「はい。どうしました?」
「とりあえず、一緒に風呂へ入ろう」
「男同士で、大事な話があるんや」
「私、今は別に風呂入りたくないんですけど」
「そう言うてくれるな」
二郎が八郎の肩へ手を置いた。
「もう俺らの逃げ場は、風呂しかないねん」
「厠か風呂しかないんや」
「館の中で話したら、全部聞かれそうなんや」
その会話を聞きつけ、千代姫たちがこちらを見る。
「急に殿方だけでお風呂ですか?」
「また私たちの悪口をお話しになるのではありませんか?」
「いや、違うんや」
一郎が慌てて手を振る。
「男同士にしかできん話もある」
「でしたら、私たちもご一緒しましょうか?」
「それだけはやめてくれ!」
兄たちの声が揃った。
四郎が引きつった笑みを浮かべる。
「自分の嫁を、八郎に見せるわけにもいかんやろ」
「八郎様は五歳ですよ?」
「五歳でも男は男や」
「兄様方、面倒くさいですね」
「頼むから、今だけは来んといてくれ」
そうして八郎は、半ば引きずられるように湯殿へ連れていかれた。
湯へ浸かった途端、一郎たちは一斉に深いため息を吐いた。
「生き返る……」
「そんなに疲れたんですか?」
「仕事やない」
三郎が湯船の縁へ頭を預ける。
「姫様方や」
「お前が肥前から帰ってから、もう大変やったんやぞ」
一郎も真剣に頷いた。
「八郎がおる時は、お前が余計なこと言うて、皆が笑うて、それで何となく場が収まっとった」
「でも、お前がおらんようになったら、正室と側室候補の間が、ぎくしゃくし始めたんや」
「毎朝、ちくちく聞かれるねん」
二郎が指を折る。
「私がおるのに、なぜ側室が必要なんですか」
「家のためですか」
「仕事で他の姫を抱くんですか」
「八郎様に言われたら何でもするんですか」
「どれをどう答えても、次の問いが来る」
八郎は湯の中で首を傾げた。
「正直に答えたらいいんじゃないですか?」
「それができたら苦労せえへん!」
四人の声が湯殿に響いた。
「別に今の嫁に不満なんかないんや」
一郎が訴える。
「むしろ、ようやってくれとる」
「でも側室候補の姫君も、肥前の市を手伝ってくれた」
「邪険にはできん」
「かといって親切にしたら、今度は正室の機嫌が悪うなる」
三郎は腹を押さえた。
「最近、飯が喉を通らへん」
「胃が痛い」
「八郎に手紙を書こうとも思ったんや」
「でも、それを誰かに見つけられたら、わしらの人生が終わる」
二郎が湯の中で頭を抱える。
「だから耐えた」
「俺ら、ほんまに耐えたんやぞ」
「八郎、何とかしてくれ」
「何とかと言われてもですね」
八郎は困った顔をする。
「来週、大友の御当主が来られますよ」
「姫君を二人ほど正式に迎えてほしい、という話も出ています」
「無理無理無理無理!」
一郎たちは湯を揺らしながら首を振った。
「これ以上増やすな!」
「せめて交通整理してからにしてくれ!」
「五郎兄様、六郎兄様、七郎兄様はどうなんです?」
「あいつらはまだ未婚やからな」
「六郎と七郎は年も若いし、そこまで深い話になってへん」
「五郎は多少困っとるけど、市を回って逃げ場を作っとった」
三郎は八郎を見た。
「でも皆、疲れとるのは間違いない」
「お前は今、当主として家同士の調整をしとる」
「でも俺らは、八郎の兄貴なだけや」
「そんな上手に姫君をまとめる能力なんかないんや」
一郎が八郎の小さな肩をつかむ。
「頼む」
「俺らに安眠をくれ」
「正室も大事にする」
「側室候補も粗末にせん」
「その折衷案を、お前から一回説明してくれ」
八郎は兄たちの必死な顔を見回した。
「分かりました」
「何とかしましょう」
「ほんまか?」
「ただし、兄様方も自分の気持ちはちゃんと話してくださいよ」
「私一人に丸投げは駄目です」
「それでもええ」
「最初の場だけ作ってくれ」
風呂から上がると、脱衣所には千代姫たちが待っていた。
手には兄たちの着替えが抱えられている。
「お話し合いは終わりましたか?」
一郎たちの動きが止まった。
「いや、話し合いいうほどのもんやない」
「でも皆様、ずいぶん長く入っておられましたね」
「日頃ようしていただいて、ほんまにありがとうございます」
三郎が急に頭を下げる。
「ですから、わざわざここまで来ていただかなくても……」
「殿方だけで急に集まれば、何か悪だくみをなさるに決まっております」
千代姫は笑顔のまま答えた。
「しかも、五歳の八郎様まで巻き込んで」
「兄として、男の器が問われるところではありませんか?」
「いやいや、違うねん」
「では、言いたいことがあるなら、直接おっしゃってください」
「私たちも、きちんとお聞きしますよ」
姫君たちは全員笑顔である。
だが兄たちは、湯上がりにもかかわらず冷や汗を流していた。
「八郎」
一郎が小声で呼ぶ。
「頼む」
二郎も続く。
「今や」
「何とかしてくれ」
八郎は兄たちと姫君たちを交互に見た。
そして小さく息を吐く。
「では明日の朝餉の後、皆さんでお話ししましょう」
「正室の方も、側室候補の方も、兄様方もです」
「ただし」
八郎は少しだけ声を強めた。
「誰かを責める会にはしません」
「どうすれば皆で気持ちよく暮らせるかを決める会です」
姫君たちは顔を見合わせ、やがて静かに頷いた。
「承知しました」
一方、兄たちはその場で力が抜けたように肩を落とした。
「助かった……」
「まだ明日の話し合いが残ってますよ」
「今夜だけでも寝られる」
八郎は苦笑した。
肥前の五十万石を治める仕組みは作れても、一つの家の人間関係を整える方が難しい。
兄たちにとって帰国最初の夜は、戦勝の宴ではなく、翌日の家族会議に備えて心を整える夜となった。




