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1535年3月3週目。 悩める五歳児。平和な街並みを見ながら大友との縁談と佐賀に置いてきた兄上たちを案じる

 三月三週目。

 八郎は本拠へ戻ってから、側室候補の姫君たちとともに、領内の帳面や市を見て回っていた。

 朝は届いた帳面を確認し、昼前には施しの炊き出しへ顔を出す。その後は市や寺社市を歩き、

 店先の商品や農民の持ち込む品を眺める。

 肥前へ出兵する直前の慌ただしさと比べれば、領内はずいぶん落ち着いていた。

「戦の前後は、どこへ行っても兵糧と人足の話ばかりでしたからね」

 八郎は、焼き魚や団子の香りが漂う市を眺めながら言った。

「今は皆さん、普通に商売の話をしています」

「この方がええですね」

 通りでは農民が野菜や薪を並べ、商人が値を確かめながら買い取っている。

 子どもたちは団子を手に走り回り、施しの鍋の前でも、以前ほど暗い顔をする者は少なくなっていた。

 夏姫が周囲を見渡す。

「ずいぶん活気がありますね」

「肥前も、早くこんな感じになればいいんですけどね」

 八郎は頷いた。

「市が回って、地元の品を買って、借金の証文が少しずつ消える」

「それが続けば、半年後にはかなり空気が変わると思います」

 龍造寺の姫君も静かに頷く。

「肥前の者たちにも、この光景を見せたいです」

「いずれ見てもらいましょう」

「こちらへ来てもらってもいいですし、肥前で同じものを作ってもいいです」

 八郎は歩きながら、九州の地図を思い浮かべた。

「今の八郎領で、直接境を接して警戒する相手は、ほとんど大内だけです」

「薩摩、大隅、日向、肥後、肥前がつながりましたから、内側で争う必要がありません」

「領土の境目が少ない分、この辺りは平和なんでしょうね」

 大友の姫君が尋ねる。

「では、これからは交易でしょうか」

「そうですね」

「今は広域交易で毎週四百五十万文ほどです」

「船便と相場表がうまく回れば、まず五百万文」

「琉球、四国、博多まで品を動かせるようになれば、毎週七百万文ほどが目標になります」

「毎週七百万文……」

 姫君たちが改めて驚く。

「薩摩で安い品を肥前へ運ぶ」

「肥前で余っている物を大隅へ持っていく」

「琉球の品を薩摩で止めず、肥前や四国まで流す」

「帰りの船にも荷を積む」

「一つ一つは単純ですけど、五か国全部で回すと大きな差になります」

 夏姫が指を折る。

「残る課題は琉球、四国、大内」

「それから大友と、どれほど仲良くできるかですね」

「はい」

 八郎が大友の姫君を見ると、姫君は穏やかに微笑んだ。

「父上とは、きっと仲良くできると思いますよ」

「この市を見れば、父上も驚かれるはずです」

「港でもない町で、これほど人が生き生きと商売をしている場所は、そう多くありません」

「大友家は交易そのものは盛んです」

「瀬戸内、博多、畿内まで品を運びますので、大きな利益もあります」

「ですが、農民一人一人の借金まで、ここほど細かく見ているわけではありません」

 姫君は、施しの列に並ぶ老人たちへ目を向けた。

「父上は、市と借金返済の仕組みを教えてほしいとおっしゃると思います」

「それは全然構いませんよ」

 八郎はあっさり答えた。

「農民さん方が楽になるなら、持って帰って使ってもらえばいいです」

「同盟相手なら、なおさらです」

「ただし」

 夏姫が少し意地悪そうに笑う。

「大友家から、姫君を二人迎えてほしいという話もございますね」

「そこですよ」

 八郎は小さくため息をついた。

「また一悶着ありそうです」

「八郎様が、お兄様方への割り振りも決めるのですか?」

「割り振りという言い方はやめてください」

 姫君たちがくすくすと笑う。

「でも、佐賀城も少し不穏になってそうな気はするんですよ」

「何か知らせがあったのですか?」

「何もありません」

「兄様方から手紙も来てません」

 八郎は真顔で答えた。

「ただ、私がいた時は、私が余計なことを言うて、皆さんが笑って、場が流れていたでしょう」

「私がいなくなったら、既婚組と未婚組で空気が変わります」

「特に正室の姫様と、側室候補の姫様が一緒に飯を食べたら、少しくらいぎくしゃくすると思います」

 龍造寺の姫君が口元を隠す。

「よく分かっておられますね」

「兄様方も八郎様へ相談したいのではありませんか?」

「相談の文なんか送れませんよ」

「『嫁の機嫌が悪くて困ってます』なんて書いて、それを見つけられたら終わりでしょう」

 姫君たちが声を上げて笑った。

「だから多分、黙って耐えてると思います」

「八郎様は、お兄様思いなのですね」

 大友の姫君が言う。

「もちろんです」

「皆さんに幸せになってほしいと思っています」

「ただ、家の幸せと個人の幸せは、同じとは限りませんからね」

 八郎は少し考え込んだ。

「婚姻で家同士は仲良くなる」

「でも、本人同士が仲良くなれるかは別です」

「そこをうまく調整できる人もいれば、できない人もいます」

「人間関係は難しいですよ」

 夏姫が八郎を見下ろして笑った。

「五歳児なのに、そのようなことまで考えておられるのですね」

「考えないとやってられない立場なんです」

 八郎は小さな胸を張った。

「私も悩める五歳児なんですよ」

「では、悩みすぎる前にお昼寝をなさってください」

「そこは普通の五歳児扱いなんですね」

「当然です」

 姫君たちに笑われながら、八郎は次の寺社市へ向かって歩き始めた。

 領内は穏やかだった。

 市も交易も、少しずつ前へ進んでいる。

 だが大友との同盟、姫君たちとの婚姻、大内との関係、そして佐賀城で息を潜めているであろう

 兄たち。

 悩める五歳児の仕事は、平和になっても少しも減りそうになかった。

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