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1535年2月4週目 肥前の一部地域。四十万文の証文が消える。八郎商会の歯車が動き出したことを感じる住民。

 二月四週目。

 佐賀寄りに立ち上げた市も、ようやく数日間の営業を終えていた。

 三郎、四郎、五郎、六郎、七郎は、島津や大友、龍造寺の姫君たちとともに、

最初に市を立ち上げた村へ向かっていた。

 三郎は帳面をぱらぱらとめくる。

「さて。」

「市が三日ほど回ったからな。」

「今日は、仕入れに使った分だけ借金の証文を消しに行くで。」

 五郎が帳面をのぞき込んだ。

「予定やと四十五万文くらいやったか。」

「そうやな。」

 三郎は頷く。

「ただ、今回は魚や乾物の一部を肥後から運んどる。」

「地元から全部仕入れられたわけやないから、肥前の借金を消せるんは、ざっくり四十万文や。」

「まあ、最初の見積もりとしては上出来やろ。」

 七郎が笑う。

「自分で言うんか。」

「誰も褒めてくれへんからな。」

 一行が市へ到着すると、農民や商人たちが遠巻きに様子を見ていた。

 数日前よりは人が増えている。

 しかし、本当に借金が消えるのかについては、まだ疑っている者も多かった。

「四十万文言うてもなあ。」

「ほんまに証文を破るんか?」

「何か別の税を取られるんちゃうか。」

 三郎は広場の中央へ進むと、商人衆へ声を掛けた。

「では、始めよか。」

「この三日間で仕入れに使った四十万文分。」

「借金の証文を持っている商人さんは、帳面を出してください。」

 商人の一人が帳面を抱えて前へ出た。

「こちらにございます。」

「仕入れ代として受け取った分を、借金返済へ回すということで間違いございません。」

 三郎は村人たちを見回す。

「聞いたな?」

「今日は四十万文分を消す。」

「ただし、誰から消すかで揉めたら今日はやらへんで。」

「押すな。」

「怒鳴るな。」

「一人の借金だけ全部消せ言うのもなしや。」

「皆で順番に軽くしていく。」

「それを守れる者から並んでくれ。」

 しばらく沈黙が続いた。

 やがて列の先頭へ出てきたのは、数日前に団子を食べながら文句を言っていた老婆だった。

 三郎が笑う。

「ばあちゃん、最初に来たな。」

「別に信用したわけやない。」

「ほんまにやるか、見に来ただけや。」

「はいはい。」

 三郎は老婆の証文を受け取った。

「元の借金が三万文。」

「利もだいぶ付いとるな。」

「いつからや?」

「もう何年も前や。」

「返しても返しても減らへんかった。」

 商人の帳面と老婆の証文を突き合わせる。

 金額に間違いがないことを確認すると、三郎は証文の両端を持った。

「ほな、三万文。」

「今日で終わりや。」

 びりっ。

 乾いた音を立てて、借用証文が二つに破れた。

 さらに細かくちぎり、帳面にも完済の印を付ける。

「これで借金なし。」

「終わりや。」

 老婆はしばらく、ちぎられた紙を見つめていた。

「……ほんまに、これだけか?」

「これだけや。」

「何か後から取りに来んのか?」

「来えへん。」

「簡単すぎひんか?」

 三郎は市を指差した。

「簡単やない。」

「あの市で、農民から米や野菜を買うた。」

「皆が飯を食うた。」

「商人にも銭が回った。」

「その仕入れ代を借金返済に回した。」

「三日間、皆が動いた結果や。」

 そして帳面を掲げる。

「この三万五千石の束には、農民と商家の借金が、およそ一千万文ある。」

「今日、四十万文消す。」

「残りは九百六十万文。」

「全部すぐには無理や。」

「でも、市が回れば毎週減る。」

 その言葉を聞いた途端、様子を見ていた村人たちが一斉に動いた。

「わしのも見てくれ!」

「こっちも五万文ある!」

「うちは二万文や!」

 列が崩れかける。

 三郎が大声を上げた。

「待て待て!」

「今、揉めたらやらへん言うたやろ!」

「並べ!」

「年寄りと、借金が少ない者から順番や!」

 姫君たちも列を整え始めた。

「押さないでください。」

「帳面を先に準備してください。」

「必ず順番は回ってきます。」

 龍造寺の姫君も、借金証文を確認する役へ入る。

「こちらは二万文。」

「次の方は三万文でございます。」

 商人衆と金額を突き合わせ、二万、三万、五万文と、証文が次々に破られていった。

 四十万文へ達したところで、三郎が手を上げる。

「今日はここまでや。」

「ええっ!」

「まだ並んどるぞ!」

「来週また市で仕入れる。」

「地元の米や野菜、魚、薪を持ってきてくれ。」

「市が動けば、また証文を消せる。」

「一人だけ急いでもあかん。」

「地域全体で順番に軽くしていくんや。」

 老婆は破れた証文を握りしめながら、小さく笑った。

「ほんまやったんやな。」

「せやから言うたやろ。」

「三日だけ騙されたと思って見とけって。」

「疑って悪かったな。」

「疑うんはええ。」

 三郎も笑った。

「目で見てから信じたらええんや。」

 八郎領の市では、月払いも始まっていることを説明する。

「借金が減ったから言うて、全部貯め込まんでもええ。」

「まだ布団を買うのは怖いかもしれん。」

「でも、箸や椀、髪留めみたいな小物を一つ買うくらいはええやろ。」

「少し暮らしが楽になったと感じてもらわんと、市も続かへん。」

 夏姫が頷いた。

「皆さんが買い物をすれば、今度は小物を作る方のお仕事が増えます。」

「銭を回すことが大切なのですね。」

「そういうことや。」

 三郎は周囲の村人を見渡す。

「ただ、弱みもある。」

「今、市を一気に動かせたんは、この二つの地域だけや。」

「ほかの地域は、まだ釜も店も足りへん。」

「だから、親戚や知り合いがおるなら伝えてくれ。」

「借金が消えたこと。」

「市ができたこと。」

「実際に見たければ、こっちへ来いってな。」

「自慢してええんか?」

「自慢してくれ。」

「見せるんが一番早い。」

 老婆が大きく頷いた。

「わかった。」

「隣村の妹に言うたる。」

「うちの証文がほんまに破られたってな。」

 周囲からも声が上がる。

「わしも親戚に知らせる。」

「来週は米を持ってくるわ。」

「野菜も買うてくれるんやろ?」

「もちろんや。」

 三郎は笑った。

「わしらはこれから、肥前五十万石全部で同じことをする。」

「時間は掛かる。」

「でも、順番は必ず来る。」

「皆で広めてくれ。」

「おお!」

 さっきまで疑いの目を向けていた者たちが、今度は笑顔で返事をする。

 姫君たちは、地面に散らばった証文の切れ端を見つめていた。

 一枚の紙が破られるたびに、一つの家の重荷が消える。

 市の利益はまだない。

 店も十分には揃っていない。

 それでも、この日消えた四十万文は、肥前の民にとって何より確かな変化だった。

 三郎は帳面を閉じた。

「よし。」

「ここからや。」

「来週は、もっと地元から仕入れるで。」

 兄弟と姫君たちの仕事は、ようやく本当の意味で動き始めていた。

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