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第百四十五話 一月四週目 肥前への進軍。飯を炊きながら進軍。油断せずに索敵しながら。敵の誘いに乗らずに平野を進む。

 一月四週目の初め。

 八郎軍二万二千は、ついに龍造寺領へと足を踏み入れた。

 先頭を歩くのは槍隊ではない。

 荷車を引く牛と、炊き出し用の大釜、米俵を積んだ荷馬車だった。

 村へ入るたび、八郎は兵たちへ同じ命令を繰り返す。

「乱暴狼藉は禁止です。」

「畑は踏まない。」

「家には勝手に入らない。」

「欲しい物は必ず値を付けて買う。」

「米は三倍の値段で買います。」

「薪も野菜も酒も、全部買います。」

「払えない者はおらんでしょうけど、帳面だけは必ず残してください。」

 兵たちは一斉に頭を下げた。

「承知!」

 村人たちは最初こそ家の中から様子を窺っていた。

 しかし本当に銭を払い始めると、少しずつ戸が開き始める。

「本当に三倍で買うんか……。」

「ええ。」

「八郎様のお達しです。」

「あと、帳面を見せてもらえますか。」

「借金の額を調べています。」

「将来、市を立てて商売を回しながら返していく予定です。」

 商家の主人は驚いた顔をした。

「まだ攻め落としてもおらん土地の借金まで見るんか。」

「見るだけならただですから。」

「先に数字を知っておけば、後が楽になります。」

 村人たちは顔を見合わせる。

「変わった殿様や。」

「ほんまやな。」

「戦しに来たんやなく、商売しに来たみたいや。」

 その日の昼には大釜が据えられた。

 味噌汁が炊かれ、握り飯と団子が配られる。

「どうぞ。」

「兵だけやなく、皆さんも食べてください。」

「今年は寒いですから。」

 老人が頭を下げた。

「ありがたい……。」

「去年もようけ施しをもろた。」

「今年も来てくれたんやな。」

 八郎は笑う。

「皆さんが元気なら、それで十分です。」

 村を出る時には、龍造寺軍への招集に応じなかった家々へ、少し色を付けた銭も渡された。

「これは。」

「迷惑料みたいなもんです。」

「ありがとうございました。」

「無理せず家を守ってください。」

 それだけ言って、軍はまた進む。

 こうした様子を見た村人たちは、自然と口を開くようになった。

「龍造寺様の兵はな……。」

「何人ぐらい集まっとるんや。」

「一万三千ぐらいやと思う。」

「思ったより少ない。」

「八郎領寄りの村は、ほとんど出てへん。」

「有馬様や松浦様寄りの村からは結構出たらしい。」

 別の老人も頷く。

「八郎様が飯配ってくれた辺りは、皆行きたがらんかった。」

「死にとうない言うてな。」

 その情報は次々と本陣へ届けられる。

 夕刻。

 八郎は地図を広げながら報告を聞いた。

「やっぱり一万三千前後ですか。」

「予想より少し下ですね。」

 六郎が腕を組む。

「あと一か月飯配っても、大して変わらんかったやろな。」

「そうですね。」

「ここからは戦場です。」

「これ以上兵数を削るより、こちらが崩れないことを優先しましょう。」

 島津本家の武将が地図を指した。

「向こうは湿地や川筋へ誘うてくるでしょう。」

「狭い谷道もあります。」

 八郎は静かに頷く。

「当然です。」

「数で負けている側ならそうします。」

「だから私たちは付き合いません。」

「平地を進む。」

「陣も平地。」

「索敵を徹底。」

「夜襲対策も怠らない。」

「危ない場所では絶対に戦わない。」

 島津分家の武将も笑う。

「八郎様らしいですな。」

「敵は勝てる場所を探す。」

「こちらは負けない場所しか選ばん。」

「それだけです。」

 八郎はさらに続ける。

「もし向こうが突撃してきたら。」

「まず八郎軍が受けます。」

「受けて、勢いだけ殺してください。」

「無理に押し返さなくていい。」

「止めるだけ。」

「そこで交代。」

「島津本家、分家の正規兵が前へ。」

「敵の精鋭を削る。」

「特に農民兵は深追いせず、逃げ道を残してください。」

「逃げる者は追わない。」

「逃げれば、それだけ龍造寺の兵は減ります。」

 島津勢は大きく頷いた。

「承知。」

「役割ははっきりしておりますな。」

 八郎は最後に地図を見つめる。

「怖いのは兵を分けることです。」

「別働隊を作って各個撃破されるのが一番まずい。」

「だから軍は固まって進みます。」

「住民が敵になることも怖い。」

「ですが。」

「そこは去年から飯を配り、施しを続けてきた意味があります。」

「今のところ、村人の空気は悪くありません。」

「それが、うちの一番の強みです。」

 誰も異論はなかった。

 兵数だけではない。

 補給でもない。

 村人が情報をくれ、道を教え、安心して米を売ってくれる。

 それこそが八郎軍最大の武器になりつつあった。

 数日後。

 二万二千の軍勢は隊列を崩さぬまま、ゆっくりと前進を続ける。

 索敵の旗が四方へ散り、荷車は絶えず行き来し、大釜からは湯気が立ち上る。

 そして、ついに龍造寺本隊が籠もる城を望む平野へ到着した。

 両軍の旗が風になびく。

 決戦の時が、いよいよ目前まで迫っていた。

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