1534年12月2週目。八郎の思惑の外で300万文分の施しを奪った龍造寺の兵は満足げだが、城の重役は八郎の思惑にかかっていると怒る。
十二月二週目。
八郎商会では、先日龍造寺領へ運び込んだ三百万文相当の米や味噌、銭などが、
龍造寺方によって回収されたという報せが届いていた。
「やっぱり取られましたか」
八郎は帳面を閉じると、あっさり頷いた。
「いや、やっぱりって……。三百万文分やぞ?」
三郎が苦笑する。
「もったいないやないか」
「いえ、十分ですよ。」
八郎はにこりと笑う。
「配った後に取られたんでしょう?」
「そうや。」
「それなら勝ちです。」
一同が首をかしげた。
「どういうことや?」
「希望を渡せたからです。」
八郎は静かに言う。
「村人は一度、『八郎領から施しが来た』と受け取ったんです。受け取って食べようと思った。
その後で龍造寺が取り上げた。」
「……。」
「恨みは誰に向きます?」
三郎がぽつりと答える。
「龍造寺やな。」
「そういうことです。」
八郎は頷いた。
「だから次からはもっと取りづらくしましょう。」
「どうする?」
「団子です。」
「団子?」
「握り飯でもええです。」
八郎は地図を広げる。
「数万文単位で、十人、二十人分ずつ持っていくんです。その場で炊いて、その場で食べてもらう。」
「なるほど。」
「食べ終わったら帰る。」
「持ち帰らせへんのか。」
「はい。腹に入ったものは取れません。」
一同が笑う。
「それはそうや。」
「今日は東の村。明日は西。次の日は来ない。その次は別の村。」
「出たり引いたりか。」
「ええ。」
八郎は頷いた。
「毎日どこへ来るか分からないようにします。」
「捕まりそうになったら?」
「荷物を置いて逃げてください。」
「命の方が大事です。」
「なるほど。」
三郎も笑った。
「ほんま、よう考えるわ。」
こうして八郎商会は、大掛かりな施しをやめ、小口の団子と握り飯を配る作戦へ切り替えていった。
その頃――。
龍造寺の城。
蔵には、取り上げた米俵や味噌樽が積み上げられていた。
「これで多少は籠城にも耐えられますな。」
現場の武士が胸を張る。
そこへ勘定奉行が現れた。
「……その米は、どこから来た?」
「八郎が村へ配っていた物資でございます。」
「村人から回収して参りました。」
その瞬間。
「……馬鹿者!」
勘定奉行の怒声が城内に響いた。
一同が固まる。
「な、何がでございますか。」
「一番やってはいかん手をやった!」
「しかし、放っておけば百姓どもが食います。」
「それで良かったのだ!」
「え?」
「いや、もちろん良くはない。」
勘定奉行は深く息を吐く。
「だが、一番良かったのは、八郎が配る前に押さえることだった。」
「それが出来なんだ。」
「ならば、届いた後は手を出すべきではなかった。」
家臣たちは顔を見合わせる。
「何故でございます?」
「施しをしたのは八郎。」
「取り上げたのは我ら。」
「……。」
「百姓の心には、それだけが残る。」
静まり返る広間。
「今頃、『八郎様はくれた』『龍造寺様は取った』と言うておるわ。」
「……。」
「恨みが残る。」
勘定奉行は腕を組む。
「しかも、八郎は次にもっと嫌らしい手を打ってくる。」
「嫌らしい?」
「団子や握り飯じゃ。」
「え?」
「その場で食わせる。」
「腹へ入れば取れん。」
一同が青ざめる。
「それに、あの者は街道だけを通ると思うな。」
地図を指差す。
「田の畦、山道、川沿い、寺への裏道。」
「いくらでも道はある。」
「柵を造りますか?」
「造れば商人も止まる。」
「市が止まる。」
「税も減る。」
「……。」
「だから塞げん。」
「では見張りを。」
「どれだけ置く?」
「境は何里あると思う。」
誰も答えられない。
「夜に来るかもしれん。」
「朝に来るかもしれん。」
「十人で来るかもしれん。」
「百人で来るかもしれん。」
「全部追えるか?」
沈黙。
現場の武士が頭を掻く。
「そんな器用なこと、できますかいな……。」
「わしら昼も夜も見張れ言うんですか。」
「そのうち夜中に団子配って帰るだけでしょう。」
「山道ばっかり通られたら見つけられまへん。」
「見つけても十人二十人ですやろ。」
「捕まえる頃にはもう食べ終わっとる。」
別の武士も苦笑する。
「えらい手間のかかる相手や。」
勘定奉行は小さく頷いた。
「そこが八郎の恐ろしいところだ。」
「大軍で押して来る前に、人の心を少しずつ取っていく。」
「二万の軍より、この団子の方が厄介かもしれんな……。」
広間には重い空気が流れた。
まだ戦は始まっていない。
だが、龍造寺はすでに、「心の戦」で押され始めていることを、誰もが薄々感じ始めていた。




