1534年11月4週目。ついに肥後の残りの国人衆が八郎領の傘下に入る。借金の帳面を出すのを渋るも緩衝地域として生きるか選択させ心を折る。
十一月四週目。
肥後に残っていた国人衆たちは、いよいよ顔を寄せ合っていた。
酒も出ていない。
笑いもない。
ただ、誰もが難しい顔をしている。
理由は分かりきっていた。
肥後の方では、八郎軍六千人が、島津本家の侍衆にしごき倒されている。
朝から槍。
昼も槍。
夜は夜で、見張り、隊列、荷駄守り、撤退の稽古。
叫び声と足音が、遠くの村まで響くほどだった。
ある国人が、苦い顔で言った。
「次は、龍造寺やろうな」
別の男が首を振る。
「龍造寺だけとは限らん」
「我らにも勧告が来る」
「肥後の残りを放って、肥前へ行くとは思えん」
沈黙が落ちた。
八郎側の市の勢いは、すでに噂では済まなくなっていた。
借金の証文が破られる。
寺社市が立つ。
農民が湯に入り、布団を買い、飯を食う。
侍の借金まで整理される。
そういう話が、風より早く流れてくる。
そして何より、村の農民たちの目が冷たくなってきていた。
口には出さない。
だが顔に出ている。
「いつまでこちらにおるつもりか」
「八郎領なら、借金が消えるのではないか」
「証文を破ってもらえるのではないか」
そういう目だった。
年配の国人が、低く言った。
「いずれ降るなら、早い方がよいかもしれん」
若い国人が顔を上げる。
「だが、龍造寺が黙っておるか」
「黙っていないと言って、何かしてきたか」
別の者が吐き捨てるように言った。
「我らが中立を保っておるから、今は緩衝地帯になっておる」
「八郎に降れば、真っ先に龍造寺から狙われる」
「それはある」
「だが、八郎に降らずとも、八郎が攻めてきたら終わりや」
重い空気の中、さらに別の者が言った。
「問題は、借金や」
皆が黙った。
そこが一番痛いところだった。
八郎軍は、ただ降ればよいとは言わない。
必ず帳面を出せと言う。
城の借金。
商家衆への借金。
武士の借金。
農民の借金。
全部を見せろと言う。
そして見せれば、おそらく自分たちは今まで通りの頭ではいられない。
首を取られる話ではない。
だが、立場はなくなる。
領地の主ではなくなる。
帳面の前で、責任を取らされる。
若い国人が苦々しく言った。
「立場がなくなるのを恐れて、攻められるのを待つのか」
年配の男が、しばらく黙った後に頷いた。
「ならば、早い方がよい」
翌日。
肥後の残存国人衆の代表たちは、八郎の本拠へ頭を下げに来た。
館へ入るまでの道中、彼らは訓練を見ることになった。
泥にまみれた八郎軍が、島津侍に怒鳴られている。
槍を揃えろ。
勝手に前へ出るな。
荷駄を捨てるな。
降る者を斬るな。
倒れた者を運べ。
隊列を崩すな。
その声は、ただの稽古ではなかった。
戦の空気だった。
国人衆の一人が、小さく呟いた。
「我らでは、受けきれんな」
誰も否定しなかった。
館で八郎に会うと、国人衆たちは深く頭を下げた。
「肥後の残りの国人衆として、相談に参りました」
八郎は幼い顔のまま、静かに座っている。
「どうぞ」
代表が言った。
「我らは、八郎様に下ることを考えております」
「肥後での訓練も見ました」
「今の我らには、あれに立ち向かう力はございません」
広間の隅で、三郎が黙って腕を組んでいた。
五郎は帳面を開いている。
八郎はすぐには喜ばなかった。
ただ、いつもの調子で言った。
「下ってくださるなら、受け入れます」
国人衆の顔が少し緩む。
だが八郎は続けた。
「ただし、帳面を見ないことには、受ける受けないは決められません」
「城の借金」
「商家衆への借金」
「武士の借金」
「農民の借金」
「全部出してください」
代表たちは、やはりそこか、という顔をした。
八郎は淡々と言う。
「それ次第では、皆さんには責任を取って、今の立場から退いていただくことになります」
広間の空気が少し硬くなる。
「もちろん、首を取る話ではありません」
「八郎領の中で住んでいただいても構いません」
「力を発揮できる方には、仕事をお願いすることもあります」
「警備、帳面、国人衆との取り次ぎ、道の整備、寺社市の見張り」
「使える力は使います」
「ですが、借金の帳面を隠すなら、引き受けません」
国人衆の一人が顔を上げた。
「引き受けぬ、とは」
「そのままです」
八郎は首を傾げる。
「中ぶらりんの緩衝地帯のまま、いていただければよいです」
「ただ」
そこで八郎は、少しだけ声を低くした。
「今、肥後で訓練している姿は見たと思います」
「龍造寺と揉める可能性があります」
「その時、緩衝地帯のままでいられますか」
誰も答えられなかった。
八郎は続ける。
「龍造寺から見れば、皆さんは八郎側に寄るかもしれない土地です」
「八郎側から見れば、龍造寺に寄るかもしれない土地です」
「どちらから見ても、危うい場所になります」
「帳面を出してこちらへ来るか」
「帳面を隠して、危うい場所のまま残るか」
「選んでください」
国人衆たちは、深く頭を下げた。
「帳面を整えて、必ず持って参ります」
数日後。
彼らは、いそいそと帳面を抱えて戻ってきた。
古い証文。
商家衆の控え。
米の借り入れ。
武具の前借り。
寺への未払い。
農民から吸い上げた分の記録。
きれいとは言えない帳面だった。
だが、隠した形跡は薄かった。
五郎と帳面役が丸一日かけて確認し、八郎の前へまとめを出した。
「城の借金、およそ二千万文」
「商家衆への借金、およそ一千万文」
「武士の借金、およそ一千万文」
「農民の借金は、細かく確認中ですが、別途整理可能です」
三郎が眉を上げた。
「見たような数字やな」
五郎も頷く。
「肥後の残りとしては、まあこんなもんでしょう」
八郎は帳面を見て、静かに頷いた。
「分かりました」
国人衆たちは、息を詰めていた。
八郎は顔を上げる。
「引き受けます」
その一言で、代表たちは深く頭を下げた。
八郎は続けた。
「ただし、順番です」
「城の借金をすぐ全部消すとは言いません」
「商家衆の借金も、武士の借金も、農民の借金も、順番に整理します」
「まずは証文を押さえます」
「次に米と味噌を入れます」
「寺社市を立てます」
「逃散を止めます」
「兵は、しばらく八郎軍の訓練に混ぜます」
「皆さんは、土地の案内と農民への説明をしてください」
代表が震える声で言った。
「我らは、頭ではなくなるのでしょうな」
八郎は少し考えた。
「今までと同じ頭ではありません」
「ですが、土地を知る者として働くことはできます」
「面目は、暮らしを戻してから考えましょう」
三郎が小さく笑った。
「きついけど、優しいんかよう分からんな」
八郎は真面目に答えた。
「借金は優しくありません」
「だから帳面は正直に扱います」
その日、肥後の残りの国人衆は、八郎側へ下ることを決めた。
城の借金二千万文。
商家衆一千万文。
武士一千万文。
重い荷だった。
だが、荷の重さが見えた時点で、もう半分は八郎の土俵だった。
肥後の残りは、静かに八郎領へ組み込まれ始めた。




