1533年1月。1月3度目の市の集計結果。売り上げ6300文、利益1420文。八郎からのお願い①四郎兄さまと新人女性で混ぜ飯売りに行って
その日の夜。
八郎の家では、すっかり恒例になった帳簿確認の場が開かれていた。
父、母。
一郎から七郎までの兄弟。
そして新しく手伝いに入った娘。
十人ほどが集まり、八郎が小さな手で帳面を広げる。
父はそれを見るだけで苦笑した。
「三歳児が帳面開いて、家族会議仕切るって、何回見ても慣れんな」
「父上、慣れてください」
「無理や」
みんなが笑う。
八郎は墨で書かれた数字を指した。
「では、今回の市の結果です」
全員が静かになる。
「売り上げは、値引き後で六千三百文でした」
その瞬間、兄たちがざわついた。
「六千……」
「前まで五千文足らん言うてた家やぞ」
「一日でか?」
一郎が呆れるように言う。
八郎は首を振った。
「ただし、売り上げと儲けは違います」
「出たな、八郎のいつものやつ」
三郎が笑う。
「大事です」
八郎は真面目な顔で続ける。
「原価が三千九百三十文です」
「高いな」
父が言う。
「はい。でも今回は魚も卵も野菜も、できるだけ皆様から買っています」
「銭を回すためか」
「はい」
父はうなずく。
以前なら「安く買え」と言ったかもしれない。
だが今は八郎の考えが分かっていた。
「次に人件費です」
八郎が続ける。
「七百五十文」
兄たちが顔を見合わせる。
「わしらの分やな」
「はい。働いた分です」
「ほんま、農作業以外で銭もらう日が来るとはな」
三郎が笑う。
「そして、お寺と市の顔役への寄進が二百文」
八郎は最後の数字を書く。
「残った利益が」
少し間を置く。
「千四百二十文です」
「……」
一瞬、静かになった。
そして。
「千超えたぞ」
誰かがつぶやいた。
「利益で千文……」
父も驚きを隠せない。
「八郎、ほんま数ヶ月前まで五千文足らん言うてたんやぞ」
「はい」
「それが一回で千四百文か」
「皆様が動いてくれたからです」
「またそういうこと言う」
母が笑った。
「でも本当です」
八郎は言う。
「私一人では魚は捌けません。火も扱えません。鍋も振れません」
「まあ、鍋まで背が届かんしな」
兄たちが笑う。
「だから皆様のおかげです」
父は小さく息を吐いた。
「それで?」
「え?」
「その顔は次がある顔や」
家族全員が笑う。
最近分かってきた。
八郎が帳面を閉じない時は、必ず次の話がある。
「はい」
八郎はうなずいた。
「目標が二つあります」
「二つ……」
父が頭を抱える。
「一つじゃないんやな」
「はい」
「言うてみ」
八郎は母を見る。
「母上に相談です」
「私?」
「はい」
「四郎兄様か五郎兄様が、一日だけ混ぜ飯を売りに行くことはできますか?」
母は考える。
「混ぜ飯だけ?」
「はい」
八郎は説明する。
「今みたいな大きな店ではありません」
「ふむ」
「母上が作った混ぜ飯を三十個ほど持って行きます」
「三十」
「売れたらよし。売れなかったら持って帰って家で食べます」
父が反応する。
「なるほどな。損が少ない」
「はい」
「でもなんでや?」
「顔を出すためです」
「顔?」
「はい」
八郎は続ける。
「今は週二回、市で店をしています。でも本当はもっと顔を出したい」
「毎日は無理やぞ」
「分かっています」
八郎は笑う。
「下ごしらえもあります。農作業もあります」
「なら?」
「だから小さい店です」
父は納得した顔になる。
「存在を覚えてもらうんか」
「はい」
「八郎の家はいつも市にいる、と」
「そうです」
和尚がいれば笑っただろう。
三歳児が商売の信用を語っている。
「それで誰が行く?」
母が聞いた。
「四郎兄様がいいと思います」
「俺?」
四郎が驚く。
母もうなずいた。
「確かに四郎は気が利くね」
「そうですね」
八郎も言う。
「お客さんを見るのが上手いです」
四郎は照れる。
「あと」
八郎は新しく雇った娘を見る。
「一緒に行っていただけますか?」
「私?」
「はい」
「でも私、まだ入ったばかりで……」
「だからです」
「?」
「覚えてもらいたいんです」
八郎は笑った。
「売ることも、人と話すことも」
娘は不思議そうに八郎を見る。
三歳児に仕事を教えられている。
「本当に変な子ですね」
「よく言われます」
みんなが笑った。
「売れた場合、市の顔役には五十文渡してください」
父が聞く。
「寺は?」
「今回はなしです」
「ええんか?」
「はい。毎回ではなく、大きな商いの時でいいと思います」
父は感心する。
「そこも考えとるんか」
「はい」
そして八郎は続けた。
「本当なら別の市にも出したいです」
その言葉に全員が止まる。
「別の市?」
「はい」
「もう広げる気か?」
「いずれです」
八郎は落ち着いて答える。
「今は一つの市を大事にします」
父は笑った。
「三歳児が言うことちゃうな」
「ですが」
「まだあるんか」
「はい」
八郎は真面目な顔になる。
「私たちが見る村は十ほどあります」
「そうやな」
「なら、その全部に銭を回す必要があります」
「……」
「雇った方も、週二日より週三日の方が嬉しいでしょう」
娘は小さくうなずいた。
「銭があると買えます」
八郎は言う。
「買う人がいると作る人が増えます」
「……」
「作る人が増えたら、村が豊かになります」
父は笑った。
「飯屋の話から村の話になっとるぞ」
「はい」
「はい、やない」
その場が笑いに包まれる。
しかし父は分かっていた。
八郎は本気だ。
そして恐る恐る聞いた。
「……一つ目って言ったな」
「はい」
「ということは」
「二つ目があります」
父は天井を見上げた。
「やっぱりか」
八郎はにっこり笑った。
「次は湯浴みの話です」
「また大きそうな話が来たな……」
父のため息と、家族の笑い声が重なった。




