1534年5月3週目。薩摩分家の庄屋衆の借金完済。鳥獣対策で侍の借金激減。湯あみ等のツケ270万文払う。
五月三週目。
八郎家の大広間には、いつもより多くの者が集まっていた。
庄屋、商人、侍、職人、帳面役。
皆、どこか身構えている。
最近の帳合せでは、何かが必ず大きく動く。
誰かの借金が消え、どこかの市が立ち、侍に仕事が回り、職人に銭が流れる。
だからこそ、今日も何が出るのかと、皆が息を潜めていた。
八郎は上座に座り、分厚い帳面を前に置いた。
「では、五月三週目の帳合せを始めます」
帳面役が一礼し、最初の札を置いた。
「まず、島津分家領七万石分」
「農民、庄屋衆の借金について」
広間が静まる。
八郎はその札を見て、静かに頷いた。
「完済しました」
一瞬、誰も声を出さなかった。
次の瞬間、分家領から来ていた庄屋衆が、わっと声を上げた。
「完済」
「本当に」
「全部ですか」
帳面役が頷く。
「帳面上、農民借用、庄屋衆借用、ともに処理済みです」
「残る細かい付けはありますが、地域借金としては完済扱いです」
庄屋衆の一人が、手を震わせながら頭を下げた。
「ありがとうございます」
「まさか、こんなに早く返していただけるとは」
別の庄屋衆も畳に手をついた。
「これで、今年の種も、秋の米も、領分の子らも、少し息ができます」
千代姫は静かに目を伏せた。
分家領の者たちが、これほど安堵した顔をするのを見るのは、何度見ても胸に来る。
八郎は小さく首を振った。
「こちらこそ、ありがとうございます」
「市を回してくれたからです」
「米を持ってきてくれた」
「野菜を売ってくれた」
「寺社市を受け入れてくれた」
「湯浴みに人を集めてくれた」
「皆さんが動いたから、帳面が進みました」
五郎が横で小さく笑う。
「褒める時も帳面やな」
「帳面は褒めるためにも使えます」
八郎は真顔で答えた。
場が少し笑った。
次に、帳面役が二枚目の札を置く。
「鳥獣対策について」
今度は侍たちが少し背筋を伸ばした。
八郎は広間を見渡した。
「五月から九月までの五ヶ月」
「農民の方から、武士の方へ依頼する形にします」
「猪、鹿、猿、鳥から田畑を守る仕事です」
「五ヶ月分、二百万文」
「ここで計上して、武士の借金と差し替えます」
侍たちの間に、どよめきが走った。
「二百万文」
「借金が」
「仕事で」
八郎は頷いた。
「施しではありません」
「仕事です」
「田畑を守る」
「村の道を見回る」
「夜に火を焚く」
「罠を作る」
「猿追い、猪追い、鳥除け」
「それを農民から正式に頼まれた仕事として受けてください」
「その分、借金を減らします」
若い侍が、思わず声を上げた。
「我らが、農民に頼まれるのですか」
「はい」
「守る相手が誰なのか、顔を見てください」
八郎はまっすぐ言った。
「戦の時だけ偉そうにしても、村は守れません」
「普段から田畑を守る者が、いざという時に信じられます」
「農民も助かる」
「侍も借金が減る」
「村の顔も分かる」
「一石三鳥です」
三郎がぼそりと言う。
「鳥も追うから四鳥やな」
何人かが笑い、侍たちの緊張が少しほどけた。
年配の侍が深く頭を下げた。
「仕事としていただけるなら、面目が立ちます」
「ありがたく、お受けいたします」
「しっかり頼みます」
八郎は頷いた。
「形だけでは駄目です」
「帳面役が村を回ります」
「農民にも聞きます」
「働いた分は減る」
「働かないなら、減らしません」
侍たちは一斉に頭を下げた。
次に出された札で、今度は職人たちがざわついた。
「湯浴み場および高級湯浴み場の建築費、設備費」
「合計二百七十万文」
八郎は軽く手を上げた。
「全部消します」
職人たちが目を丸くした。
「全部」
「今月分だけではなく」
「はい」
八郎は頷く。
「湯浴みは、もう贅沢だけではありません」
「農民が汗を流す」
「商人が休む」
「侍が体を洗う」
「女衆が息をつく」
「人が集まる」
「人が集まれば市が動く」
「だから、ここで払います」
鍛冶職人、桶職人、大工、薪を扱う者たちが、次々に頭を下げた。
「ありがたいことでございます」
「次の湯浴み場も、きちんと作らせていただきます」
「壊れたらすぐ直します」
八郎はにこりと笑った。
「お願いします」
「湯が止まると、人の機嫌が悪くなります」
「機嫌が悪いと、銭も動きません」
「そこまで帳面か」
三郎が呆れる。
「人の機嫌も帳面に出ます」
「怖いこと言うな」
広間には、借金が消えた安堵、仕事が生まれた高揚、職人に銭が流れる喜びが満ちていた。
八郎は、そこで一度手を打った。
「一個一個、やっていきましょう」
「全部を一度にはできません」
「でも、消せるものは消していきます」
「借金を消す」
「仕事を作る」
「市を回す」
「湯を沸かす」
「飯を炊く」
「交易を広げる」
「それは変えません」
広間の者たちは、皆、真剣に聞いていた。
四歳の子どもが言っているとは思えない。
だが、この四歳児の帳面で、本当に借金が消え、仕事ができ、飯が増えている。
信じるしかなかった。
八郎は続けた。
「今後も、交易をしながら、次の戦いにも備えます」
「ただ刀を振るだけではありません」
「豊かさを見せつける」
「飯を見せる」
「湯を見せる」
「借金が消える帳面を見せる」
「それも戦です」
五郎が小さく呟いた。
「また戦って言うた」
「戦です」
八郎は否定しなかった。
「でも、人がたくさん死ぬ戦ではありません」
「向こうが、こちらの方がましだと思うようにする戦です」
「そのために、皆さんの力が必要です」
八郎は小さな体を折り、深く頭を下げた。
「よろしくお願いします」
大広間の空気が、ぐっと引き締まった。
それから、庄屋、商家衆、侍、職人たちが、次々に頭を下げた。
「こちらこそ、よろしくお願いいたします」
「田畑、守ります」
「市、回します」
「湯、沸かします」
「荷、運びます」
八郎は顔を上げ、満足そうに頷いた。
「では、順繰りです」
「次の帳面までに、できることを進めてください」
三郎が笑った。
「また順繰りか」
「順番です」
八郎は胸を張る。
「私は四歳児なので、一個ずつしかできません」
五郎が即座に突っ込んだ。
「一個ずつの大きさがおかしいんや」
広間に笑いが起きた。
けれど、その笑いの中で、確かに領地はまた一歩、豊かさの方へ動き出していた。




