1534年4月2週目。二郎と春姫がお互い頑張ってお風呂に入ることに。2人でゆっくり話して布団を一緒にする。
湯浴み場には、急ごしらえの衝立が立てられていた。
湯気が白く立ちのぼり、灯りがぼんやりと揺れている。
侍女たちは少し離れたところに控え、必要以上には近づかないようにしていた。
二郎は湯に肩まで浸かりながら、衝立の向こうにいる春姫の気配を感じていた。
妙な沈黙が続く。
先ほどまであれだけ大きな話をしていたのに、いざ二人だけになると、何を言えばよいのか分からない。
先に口を開いたのは、春姫だった。
「なんだか、変な感じになってしまいましたね」
二郎は湯の面を見つめたまま、小さく頷いた。
「はい」
「でも、仕方ないところもあると思います」
「今日か明日にも肝付の城が落ちるかもしれない」
「そうなれば、島津本家としては考えることがあるでしょう」
「八郎家としては、別に急いでも急がなくても、本人たちが納得すればええ、という話かもしれません」
「でも島津としては、そう簡単にはいかない」
「それは、分からんでもないです」
春姫は湯の中で、少し目を伏せた。
「二郎様は、優しいのですね」
「優しいかは分かりません」
二郎は少し困ったように答える。
「ただ、今日、芋焼酎のことや、畑のことを話して」
「春姫様が、いいと言ってくれたのは」
「僕は、結構嬉しかったです」
衝立の向こうで、春姫が息を止めたような気配がした。
二郎は言葉を探しながら続ける。
「僕は、農業の話ばかりします」
「芋のこと、土のこと、水のこと」
「八郎がいなければ、たぶん春姫様と縁談になることもなかったと思います」
「庄屋の次男で、武家の姫様とこうして話すようなこともなかった」
「それなのに、こうして楽しい時間をもらっている」
「それは、すごく幸せなことやと思っています」
春姫は衝立の向こうで、小さく笑った。
「そこまで言ってくださるなら、もう少し自信を持ってくださればよいのに」
「そこが難しいんです」
二郎は正直に言った。
「いかんせん、僕は女性に疎すぎます」
春姫が少し吹き出した。
「ご自分で言われるのですね」
「はい」
「告白もそうです」
「その……布団に誘う手順も、分かりません」
湯気の中で、二郎の耳が赤くなっているのが自分でも分かった。
「僕だって男ですから」
「誘いたくないわけではありません」
「春姫様を嫌だと思っているわけでもありません」
「むしろ、もっと話したいし、近くにいたいと思っています」
「でも、どう進めればいいのか分からない」
「手順が分からんのです」
衝立の向こうから、春姫の声が少し強くなった。
「私だって、そんな手順が分かるわけではありません」
二郎は思わず顔を上げた。
春姫は続ける。
「私も結婚したことなどありません」
「姫たちだけで話すことはあります」
「でも、実際に誰かと向き合って、どうすればよいのかなんて、分かるわけがないのです」
「だから」
春姫の声が少し震えた。
「私は、頑張ったのです」
「二郎様がお昼に頑張ってくださったから」
「農民の方々に怒らず、芋を出して、焼酎を出して、場を和ませてくださったから」
「私も夜、少しごちゃごちゃしましたけれど」
「私なりに、頑張ったのです」
二郎は黙って聞いていた。
春姫は少し拗ねたように言った。
「それを、褒めることはできないのですか」
二郎は慌てた。
「すみません」
「いえ、謝ってほしいのではありません」
「あ、はい」
二郎は湯の中で姿勢を正した。
「春姫様」
「今日は、本当にありがとうございます」
「春姫様が勇気を出してくださったこと、すごく嬉しかったです」
「僕は、嬉しかったのに、うまく言えませんでした」
「すみません」
春姫は少し黙った。
それから、衝立の向こうで小さく笑った。
「ありがとうございますだけですか」
「え」
「私にも、ご褒美はないのですか」
二郎は固まった。
「ご褒美」
「はい」
春姫は、恥ずかしさをこらえるように言った。
「今夜、お布団に一緒に入ることを、許していただけませんか」
湯浴み場の湯気が、急に濃くなったように感じた。
二郎は何度か口を開けて、閉じた。
そして、ようやく絞り出す。
「……ぜひ、よろしくお願いします」
言った瞬間、自分でも何を言っているのか分からなくなった。
春姫は衝立の向こうで、くすりと笑った。
「はい」
「よろしくお願いいたします」
その後、二人は湯の中で、もう少しだけ話した。
芋のこと。
明日の朝のこと。
婚姻にするのか、婚約にするのか。
今夜は無理をしないこと。
春姫が怖くなったら、すぐに言うこと。
二郎が困ったら、正直に言うこと。
そういう、色気があるのかないのか分からない約束を、二人は真面目に一つずつ決めていった。
湯から上がる頃には、二郎の緊張も、春姫の強がりも、少しだけほどけていた。
侍女たちは静かに部屋を整えた。
布団は横に二つ。
近すぎず、遠すぎず。
春姫が部屋へ入り、少し遅れて二郎も入る。
二人は布団を見て、同時に顔を赤くした。
「横ですね」
「横です」
「……寝られますか」
「分かりません」
「私もです」
そう言って、二人は小さく笑った。
外では、肝付の城へ向かう早馬の音が遠くに響いていた。
国は動いている。
家も動いている。
けれどその夜、二郎と春姫は、家のためだけではなく、自分たちの気持ちで、同じ部屋に並んだ。
それは婚姻の決断ではまだなかった。
けれど、春姫にとっても二郎にとっても、確かに一歩だった。




