1534年4月2週目。八郎様の金魚の糞と言われ嫌な気持ちになる兄達。ただ庄屋衆の借金証文を消すと態度が180度変わり噂が広がる。
四月二週目に入ると、島津本家領での市は、ようやく形だけは動き始めていた。
三郎は市の飯を見て回り、味を確かめ、煮物の火加減を直し、魚の使い方を教えていた。
五郎は寺社市の話を持って、寺や神社を回り続けている。
だが、風当たりは強かった。
島津本家の庄屋衆は、三郎と五郎を見る目からして違う。
「八郎様の金魚の糞に、なんでわしらが頭下げなあかんねん」
その言葉は、面と向かって言われた。
さすがの三郎も、五郎も顔をしかめた。
その場にいた八郎商会側の商人衆が、先に声を荒げた。
「何を言うてはるんですか」
「こちらは八郎様のお兄様方やぞ」
「八郎様が握り飯を売るところから見てはった方々や」
「八郎領でそんなこと言うたら、たぶん張り倒されますで」
島津本家の庄屋が鼻を鳴らす。
「ここは八郎領やない」
「島津の領内や」
「それは承知してます」
八郎商会の商人は引かなかった。
「けど、規模を考えてみなはれ」
「八郎様が島津様に融通を利かせるいうのが、どれだけ異常なことか分かってますか」
「四十万石を超える領を持って、借金を何百万文、何千万文と消していってる家です」
「島津の大殿様が、こちらの市を入れてくれとおっしゃったんです」
「それに対して、領内の庄屋衆がその態度でええんですか」
本家の庄屋衆たちは、気まずそうに顔を見合わせた。
それでも一人が言い返す。
「言われてもな」
「わしらは直接、大殿から聞いとらん」
「勝手にやってくれ言われても、こっちにも面子がある」
「借金なんぞ、恥ずかしくて出せるか」
五郎はそこで、少し息を吐いた。
「なるほど」
「言うてることは分からんでもないです」
「ただ、金魚の糞言われるのは、ちょっと心外ですわ」
三郎も頷く。
「俺らも、八郎にただくっついて歩いてるわけやないんで」
五郎は帳面を開いた。
「とりあえず、この三日ほどで、市の仕入れと売り上げが動いてます」
「まだ三十の市の一部です」
「それでも、今の分だけで四十万文ほど借金の付けを消せます」
庄屋衆たちは一瞬、何を言われたか分からない顔をした。
「何を言うてんねん」
「そんな消えるわけないやろ」
「消えます」
八郎商会の商人が横から言った。
「最初は値下げもしてますし、利益は薄いです」
「ですが、飯が動いています」
「三万五千石分の領地で、三十か所の市が動き始めているんです」
「しかも、他の店と食い合いません」
三郎が続ける。
「下魚をすり潰して、つみれ汁にします」
「親鳥を柔らかく煮て、親子丼にします」
「食えへんと思われていたものを、食える飯に変えます」
「米も野菜も味噌も動く」
「他の店の客を奪うんやなくて、新しい飯を作るんです」
「だから売れる」
五郎が帳面を指で叩いた。
「八郎が考えるのは、確かにうまいです」
「でも、実際に手を動かしてるのは三郎兄様です」
「八郎が三郎兄様をここへ連れてきた意味は、めちゃくちゃあります」
庄屋衆たちは黙り込んだ。
八郎商会の商人が、さらに言った。
「これがうまくいけば、島津全域でやります」
「そうなれば、島津は八郎領の中の島津、という見られ方になるかもしれません」
「なんやと」
島津本家の庄屋衆が目をむく。
「言い過ぎやろ」
「言い過ぎかどうかは、帳面が決めます」
五郎は静かに返した。
「話を戻します」
「今、四十万文の付けを消せます」
「どこの貸し付けから消しますか」
その瞬間、庄屋衆たちの顔色が変わった。
「……本当に消せるんか」
「はい」
「今ここで、借用書を出してもらえれば」
「八郎商会で確認して、こちらで買い取り、破棄します」
「破棄?」
「はい」
「借りている側から見れば、借金が消えます」
一人が手を上げた。
「うちの分を」
すぐに別の者も続く。
「いや、うちが先や」
「待て、うちの方が利が高い」
五郎が呆れたように笑う。
「さっきまでの誇りはどうしたんですか」
庄屋衆の一人が真顔で答える。
「誇りより借金が消える方がええ」
三郎が思わず吹き出した。
「正直でよろしい」
五郎はさらに尋ねた。
「ちなみに、利息はどうなってます?」
「高いところは五割や」
「五割」
三郎が眉をひそめる。
「そら苦しいわ」
八郎商会の商人が頷く。
「八郎様と付き合うようになれば、その利を下げることができます」
「なんで下がるんや」
「わしらが何を言うても下がらんかったぞ」
「信用が違います」
五郎が答えた。
「領地の広さ」
「市の回り方」
「支払いの確かさ」
「八郎商会が間に入るなら、貸す側も安心する」
「だから利が下がる」
「島津様は兵は強いです」
「この前の戦も勝たれました」
「でも、領内の経済状態はよくない」
「市場を見れば分かります」
「だから商人たちは貸したがらない」
「本来なら、戦をする余裕も薄いはずです」
本家の庄屋衆は、悔しそうに黙った。
五郎は言い過ぎたと思い、少し声を柔らかくした。
「だから、こちらが来ています」
「大殿様がそれを分かって、八郎に頼まれた」
「それは恥ではありません」
「立て直すための一歩です」
しばらく沈黙があった。
やがて、最初に手を上げた庄屋衆が、奥から古い借用書を持ってきた。
「納得はしてへん」
「けど、とりあえず消してもらいたい」
五郎は頷いた。
「分かりました」
「確認します」
帳面役が借用書を広げ、金額と名を読み上げる。
八郎商会の銭箱が開かれた。
貸し付けていた側へ銭が渡る。
借用書は、皆の前で破られた。
紙の裂ける音が、妙に大きく響いた。
借りていた商人が、その場で膝をついた。
「……ほんまに、消えたんか」
「消えました」
五郎は静かに言った。
次の者が、慌てて借用書を出す。
さらに次も。
さっきまで八郎家を馬鹿にしていた者たちが、今度は帳面の前へ並び始めた。
三郎は腕を組みながら、苦笑する。
「飯を食わせるより早かったな」
五郎も苦笑した。
「借金が消える音は、どんな説教より効くわ」
島津本家の市は、まだ本当に受け入れられたわけではない。
反発もある。
疑いもある。
誇りも邪魔をする。
けれど、その日、四十万文分の借用書が破られた。
それを見た者たちは、少なくとも一つだけ理解した。
八郎商会は、口だけではない。
本当に帳面を消す。
その噂は、その日のうちに城下へ広がり始めた。




