1534年4月。島津本家での市の立ち上げに苦労する兄弟たち。市でも基本上から。寺社市も疑心暗鬼。
島津本家での市の立ち上げは、思っていた以上に難しかった。
三郎は、用意された立派な宿に泊められていた。
食事も悪くない。
寝床も上等。
扱いだけを見れば、客人として十分すぎるほど丁重であった。
だが、居心地は悪い。
「ぽっと出の商家の八男が、金回りのええ市を急に開く」
島津本家の者たちの目には、そう映っているのが分かった。
八郎領や島津分家であれば、もう皆が市のありがたさを知っている。
借金が減り、飯が増え、湯浴みができ、布団が買える。
だから多少変なことをしても、まず聞いてくれる。
けれど本家では違った。
まだ帳面も見えていない。
借金が消える実感もない。
あるのは、島津の誇りと、外から来た八郎商会への警戒だった。
三郎は市の飯を確認しながら、マグロの煮付けを並べさせた。
「とりあえず二割引きで食うてください」
本家の侍が鼻を鳴らす。
「なんでそんな下魚を食わなあかん」
「マグロなど、食うところがないやろう」
三郎は苦笑する。
「まあ、そう言わずに」
「ほんの少しでいいです」
「毒は入ってません」
「何回言うんじゃ」
「信用していただくためです」
三郎は小鉢を差し出した。
「油の乗ったところは足が速いので使いません」
「でも、この赤身はじっくり煮ると肉みたいにうまいんです」
「騙されたと思って、一口だけ」
侍は渋々箸を伸ばした。
口に入れ、少し黙る。
「……意外と、いけるな」
「でしょう」
「まあ、食うたってもええ」
「ありがとうございます」
三郎は頭を下げながらも、内心で苦笑した。
基本、上からやな。
だが、まず一口食わせた。
それだけでも前進だった。
一方、五郎は寺や神社を回っていた。
「寺社市を開かせてもらえませんか」
「市より少し高めになりますけど、その分近くまで持っていきます」
「利益は寺社と商人とうちで三等分」
「寄進も落ちますし、仕事も作れます」
住職や神主たちは、話は聞く。
だが、顔には疑いが浮かんでいた。
「騙されているような、いないような話ですな」
「いや、騙してません」
五郎は笑顔で返す。
「帳面も出します」
「売り上げも見せます」
「ただ、最初は一緒にやってもらわないと動きません」
それでも話はなかなか進まない。
湯浴みは少しずつ人が入り始めていた。
だがそこでも揉める。
「俺に仕事をくれ」
「暇なんや」
「湯を運ぶだけならできる」
「いや、それはうちの親戚がやる」
島津本家の城下は、八郎領ほど滑らかには動かなかった。
三郎と五郎は夕方、城へ戻る道で顔を合わせた。
「きついな」
五郎がため息をつく。
「きつい」
三郎も頷く。
「飯も、まず疑われる」
「寺社市も進まん」
「本家は事情が違うわ」
「うちはだいたい、国人衆が借金でどうにもならんから来てくれ、助けてくれ、
って頭を下げてきたところを吸収してきたからな」
五郎は城を見上げた。
「ここは、まだ助けてくれの空気が薄い」
「大殿はやってくれと言うてる」
「でも下は、受け入れる準備ができてへん」
三郎は小さく頷く。
「一週間やな」
「まず一週間やって、庄屋衆の借用書を集める」
「市の売り上げで、その帳面が少しでも消えるところを見せる」
「それを見せないと、どうしようもない」
その頃、二郎も春姫と領内を見て回っていた。
畑を見る。
水を見る。
土を触る。
芋の苗をどれだけ入れられるか、米以外をどこで作るか。
二郎には大事な話だった。
春姫も真剣に聞いてくれる。
そこまではよかった。
だが、城へ戻れば空気が変わる。
侍女やお局たちが、やたらと二人を近づけようとする。
二人で庭を。
二人で膳を。
二人で部屋を。
そのたびに春姫の顔が少し硬くなった。
三郎と五郎も、さすがに見かねた。
「ちょっと、あからさますぎますわ」
五郎が柔らかく言うと、侍女は真剣な顔で頭を下げた。
「皆様、そのようなことも大事でございます」
「ですが、まずは春姫様のことを第一にお考えいただければ」
「もう八郎様が出発されて一日、二日経ちました」
「肝付の城が落ちるかもしれません」
「それまでに、何とかお話を進めませんと」
場の空気が重くなる。
春姫は黙っていた。
二郎も言葉を探す。
三郎が静かに言った。
「春姫様が苦しそうです」
侍女は口をつぐんだ。
春姫は小さく頭を下げた。
「……すみません」
そして、そのまま自室へ下がってしまった。
残された三郎と五郎は顔を見合わせる。
「まずいな」
「うん」
「この空気、だいぶきついぞ」
その夜、二郎は春姫の部屋の前まで行った。
無理に入ることはせず、廊下の外から声をかける。
「春姫様」
少しして、襖の向こうから返事があった。
「はい」
「無理をせんでええんやで」
沈黙が落ちる。
二郎は言葉を選びながら続けた。
「周りの期待がすごいのは分かる」
「俺も、なかなか居づらい」
「今、春姫様が、では嫁ぎますと言えば、多分すぐ話は進む」
「もしかしたら、その先のことまで急がされるかもしれん」
襖の向こうで、春姫の息が少し揺れた。
二郎は視線を落とす。
「でも、それで後悔するかもしれん」
「好きかどうかを確かめる時間は、正直短い」
「結婚までゆっくり考える余裕も少ない」
「けど、納得して嫁ぐのと、家の名前を背負わされて嫁ぐのとでは、全然違うと思う」
「布団を共にするにしても」
「気持ちが違うと思う」
春姫は何も言わなかった。
二郎は続けた。
「だから、無理はしなくていい」
「ただ」
「保留なのか」
「嫁ぐのか」
「嫁がないのか」
「近いうちに決めなあかんことは、俺も分かった」
「この圧は、俺もきつい」
襖の向こうから、小さな声がした。
「二郎様も、苦しいのですか」
「うん」
「芋の話だけしてる方が、ずっと楽です」
春姫は少しだけ笑ったようだった。
二郎も、ほんの少し笑う。
「今日は、一回寝て落ち着きましょう」
「答えは、明日また考えればいいです」
「はい」
「では」
二郎は静かに頭を下げ、廊下を離れた。
春姫は襖の内側で、膝の上の手を握った。
家のために急がなければならない。
でも、急げば自分の心を置き去りにするかもしれない。
二郎は優しい。
だからこそ、余計に苦しい。
春姫はその夜、なかなか眠れなかった。
外では、遠くで軍の知らせを運ぶ早馬の音が聞こえていた。




