1534年4月。二郎や春姫が島津本家に入る。行軍中は楽しかったが城に戻ると緊張感がえぐい。
それから二、三日の間、春姫は二郎と何度か顔を合わせた。
正式な逢瀬というほど大げさなものではない。
芋の苗をどこへ植えるか。
島津本家の畑で水はけの良い場所はどこか。
痩せた土地でも育つのか。
ウネを作るには、どれだけ人手がいるのか。
そういう話を、二郎と、手伝いに入る者たちと一緒に、ぽつぽつと話す時間だった。
二郎は口数が多い方ではない。
春姫も、華やかに場を回す方ではない。
それでも不思議と、話は途切れなかった。
「ここは水が多いかもしれません」
「では、少し高いところの畑がよいのですね」
「はい。あと、苗を腐らせないようにせなあきません」
「腐るのですか」
「水が多すぎると」
「芋も、世話を間違えると駄目になるのですね」
「人も、たぶんそうです」
二郎がそう言ってから、自分で少し驚いたような顔をした。
春姫はその表情を見て、小さく笑った。
「二郎様は、ときどき面白いことをおっしゃいます」
「八郎ほどではありません」
「それは、そうですね」
その言い方に、二郎も少し笑った。
行軍中は、六郎や七郎に茶化されることもあった。
「二郎兄様、また芋の話ですか」
「芋だけで春姫様を口説くつもりですか」
「うるさい」
二郎が低く返すと、春姫は袖で口元を隠して笑った。
三郎や五郎も、遠くからその様子を見てにやにやしている。
八郎家の兄弟は、遠慮がない。
けれど、不思議と嫌な感じはしなかった。
春姫は思った。
兄弟仲が良いというのは、こういうことなのかもしれない。
武家の娘として育った春姫の周りには、いつも順序があった。
姉に会うにも、侍女が取り次ぐ。
父へ話すにも、誰かを通す。
宴席では笑うが、座る位置も、口にする言葉も、誰かの目を意識する。
それが当たり前だった。
けれど八郎家は違う。
誰かが言えば、誰かが突っ込む。
母が叱る。
父が困る。
八郎が平然と国を動かす話をする。
その横で兄たちが笑う。
近すぎるくらい近い。
だが、その近さが春姫には羨ましかった。
やがて春姫は、二郎たちとともに島津本家へ戻った。
城へ入ると、空気が変わった。
懐かしいはずの廊下。
見慣れた庭。
幼い頃から使っている部屋。
それなのに、どこか硬い。
自室へ戻ると、昔から仕えている侍女や、お局たちが待っていた。
「春姫様、お戻りなさいませ」
「ご無事で何よりでございます」
「二郎様とは、いかがでございましたか」
春姫は軽く頭を下げた。
「よくしていただきました」
その一言に、お局の目が光る。
「それは何よりでございます」
「ご婚姻の件、どうぞよろしくお願いいたします」
春姫の指が、袖の中で少し止まった。
「……まだ、そのように決まったわけではありません」
「ですが、今が大事でございます」
別の侍女が声を潜める。
「肝付が落ちる前に縁が決まれば、島津本家の面目が立ちます」
「お父上様も、それを望んでおられます」
春姫は黙った。
二郎と畑の話をしていた時間が、急に遠くなる。
芋の苗。
水はけ。
温かい飯。
軒先での短い会話。
それらが、家の都合という大きな言葉に押し潰されそうだった。
その後、三郎と五郎も本家の城へ入った。
市と寺社市の立ち上げのためである。
だが、本家側の空気は、二人にもすぐ分かった。
やたらと二郎と春姫を二人にさせようとする。
畑の確認も、二人でどうぞ。
膳も、できれば隣に。
庭の案内も、二人で。
廊下の先で侍女たちが目配せをしているのを見て、五郎は小さく苦笑した。
「ちょっと、あからさますぎひんか」
三郎も腕を組む。
「さすがに春姫様も気詰まりやろ」
その言葉を聞いた侍女の一人が、真面目な顔で頭を下げた。
「うちにとっては、大事なことなのでございます」
「それは分かります」
五郎は穏やかに返した。
「島津の家としては、早く縁を結びたい」
「肝付が落ちる前と後では、意味が違う」
「それは八郎も言うてました」
侍女は少しほっとしたように顔を上げる。
しかし、五郎は続けた。
「でも、俺ら八郎家としては、別にそんなに急いでも急がなくても、春姫様の気持ちでいいと
思うんです」
その場の空気が、一瞬止まった。
お局の顔が硬くなる。
「春姫様のお気持ちは、もちろん大事でございます」
「ですが、姫としてのお役目もございます」
三郎が静かに言った。
「役目があるのは分かります」
「けど、春姫様は物ではありません」
「二郎兄さんも、家の駒ではありません」
「二人が一緒に飯を食べて、話して、ええなと思うなら、それで進めばいい」
「そうでないなら、少し待ってもええんちゃいますか」
侍女たちは困ったように顔を見合わせた。
八郎家の者は、家の重さを知らないわけではない。
むしろ、国を動かしている。
それなのに、こういうところで妙に個人の気持ちを大事にする。
そのずれが、島津本家の古い空気には少し眩しかった。
春姫は廊下の陰で、その会話を聞いていた。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
同時に、苦しくもなった。
家のために早く決めなければならない。
けれど、自分の気持ちも置いていきたくない。
二郎は、そんな春姫の少し離れたところで、庭の土を見ていた。
侍女に誘導されるでもなく、ただ黙って土を指でつまみ、様子を見ている。
その姿を見て、春姫は思った。
この人は、急かさない。
たぶん、畑と同じように、私のことも無理に引っ張らない。
五郎が春姫に気づき、軽く頭を下げた。
「春姫様」
「すみません。少し、余計なことを言いました」
春姫は首を振った。
「いいえ」
「ありがとうございます」
三郎も柔らかく笑う。
「二郎兄さんは、不器用ですけど悪い人ではありません」
「それは、分かっております」
春姫は小さく笑った。
「芋の話ばかりですが」
「それはもう、諦めてください」
五郎がそう言うと、春姫は初めて声を出して笑った。
その笑いに、硬くなっていた侍女たちの表情も、少しだけ緩む。
けれど、空気の奥にある焦りは消えなかった。
肝付が落ちる前か、後か。
家の理屈は、春姫を急かし続けている。
それでも春姫は、その日の夕方、二郎ともう一度畑を見る約束をした。
答えはまだ出ない。
だが、逃げずに考えようと思った。
家のためではなく。
ただ流されるためでもなく。
一人の女として、二郎という人を見てから決めたい。
そう思えたことだけは、春姫にとって大きな一歩だった。




