1543年4月。時はさかのぼり二郎と島津の姫君。春姫と八郎両親との食事会。緊張はあるも温かい食事会
時は、少しだけ遡る。
八郎が兄弟を一郎と千代姉様の館へ皆を連れて行った、その晩。
二郎だけは、八郎の家に残されていた。
相手は島津本家の春姫。
そして、八郎の父と母。
四人で飯を食う。
ただそれだけのことなのに、二郎は妙に落ち着かなかった。
先ほどまでは、春姫と芋の話をしていた。
畑の水はけ。
苗の向き。
土の固さ。
痩せた土地でも育つかどうか。
春姫は静かに聞き、時々、自分の領地の畑の様子を話した。
二郎も、いつもよりは言葉が出ていた。
盛り上がる、というほど派手ではない。
だが、ゆっくり話が続く。
それが心地よかった。
けれど、いざ父と母を前にして膳が並ぶと、急に何を話してよいのか分からなくなった。
春姫も同じようで、先ほどまで畑の話をしていたとは思えないほど、少し頬を赤くして、
箸を持つ手を小さく揃えている。
母がその様子を見て、くすりと笑った。
「そうよねえ」
「急に父と母と四人で飯を食え言われても、何を話していいか分からへんよね」
父も苦笑する。
「八郎も困ったもんや」
「なんでもかんでも、飯で何とかしようとする」
二郎は小さく頷いた。
「ほんまに、急すぎる」
春姫は少し笑い、それから姿勢を正した。
「でも、八郎様のおかげで、島津本家でも城周りのことが動き始めております」
「うちとしては、本当に助かっております」
父は首をかしげた。
「いや、俺らは別に何もしてないけどな」
母も頷く。
「そうそう。八郎が勝手に大きな話をしてるだけで」
春姫は静かに首を振った。
「何もしていないわけではないと思います」
その声は柔らかいが、芯があった。
「お話を伺っていても、八郎様はしっかりして見えます」
「ですが、やはり四歳です」
父と母は思わず顔を見合わせた。
春姫は続ける。
「四歳の子どもの話を、まともに聞く」
「それがどれほど異常なことなのか、私にも分かります」
「普通なら、子どもの戯れ言で終わります」
「賢い子だ、面白い子だ、と言われて終わるだけです」
「けれど、こちらの家では違ったのですね」
二郎は黙って春姫を見た。
春姫は、膳の白飯へ少し目を落とす。
「八郎様が恐ろしいほどの才をお持ちなのは、もちろんです」
「ですが、その前に」
「八郎様の話を、家の中で誰かが聞いてあげた」
「庄屋の八男というお生まれでありながら」
「お店をやろうというところまで、話をつなげた」
「それが、私はすごいと思います」
母の目が少し柔らかくなった。
「……あんた、やっぱりええ子やね」
春姫は驚いたように顔を上げる。
母は笑って続けた。
「八郎は確かに変な子やけど」
「最初から全部できたわけやないの」
「よう分からんことを言うて」
「父さんが困って」
「兄たちも困って」
「それでも、なんか本気で言うてるから、じゃあやってみるかってなって」
父が照れくさそうに頭をかいた。
「まあ、最初は混ぜ飯やったな」
「市で売る言うてな」
「子どもの考えにしては変に細かかった」
二郎がぽつりと言った。
「五郎も、そこからずっと見てる」
「三郎は飯を作って」
「一郎兄さんは畑を見て」
「俺は……芋を見て」
春姫は二郎の方を見る。
「二郎様は、芋の話をするとき、とても穏やかに話されます」
二郎は急に耳まで赤くなった。
「いや、芋ぐらいしか話せへんだけで」
「それがよいのだと思います」
春姫は小さく笑った。
母はその二人を見て、また嬉しそうに目を細める。
「ほら、話せてるやないの」
父もにやにやした。
「八郎がおらん方が、案外ええんちゃうか」
二郎がむっとする。
「父上」
春姫は笑いをこらえきれず、少し肩を揺らした。
その笑いで、食卓の緊張が少し溶けた。
母が汁物を春姫の前へ少し寄せる。
「温かいうちに食べてね」
「はい」
春姫は椀を手に取り、一口飲んだ。
ほっとしたような顔になった。
「おいしいです」
「よかった」
母が嬉しそうに笑う。
春姫は椀を見つめたまま、少しだけ声を落とした。
「私は、こういうご飯をあまり食べたことがありません」
「武家の娘ですから、宴会はあります」
「家の者が集まることもあります」
「でも、宴会はやはり緊張します」
「父を中心に話が進みますし、皆が言葉を選びます」
「笑い声があっても、どこか硬いのです」
父も母も、静かに聞いていた。
「こちらの食卓は違います」
「八郎様を中心に、皆様が言いたいことを言って」
「叱ったり、笑ったり」
「兄弟で突っ込んだり」
「お母様が止めたり」
「お父様が困ったり」
父が苦笑する。
「俺は困ってばっかりやな」
「でも、それが温かく見えました」
春姫は少し恥ずかしそうに言った。
「羨ましいと思いました」
二郎は箸を止めた。
その言葉が、妙に胸に残った。
春姫は武家の姫だ。
きれいな着物を着て、礼を知り、言葉も丁寧だ。
けれど、その奥に、普通に温かい飯を食べたい娘がいる。
二郎は少し考えてから、ぶっきらぼうに言った。
「うちは、うるさいだけです」
春姫が顔を上げる。
二郎は汁椀を見ながら続けた。
「八郎が変なこと言うて」
「兄弟が突っ込んで」
「母上が叱って」
「父上が困る」
「それだけです」
春姫は静かに微笑んだ。
「それが、よいのだと思います」
二郎はまた耳を赤くした。
母はそれを見て、父の方へ小さく目配せする。
父は頷き、余計なことを言いそうになって、母に睨まれて黙った。
春姫は、温かい白飯を一口食べる。
そして、小さく言った。
「また、こうしてご飯をいただいてもよろしいでしょうか」
二郎は少し遅れて答えた。
「……もちろんです」
母がにこりと笑う。
父も今度は余計なことを言わず、ただ頷いた。
その晩の食卓は、派手な笑いはなかった。
八郎がいる時のように、話が国や戦や市へ飛ぶこともなかった。
ただ、温かい飯があり、汁物があり、少し照れた二郎と、少し羨ましそうに笑う春姫がいた。
そして母は思った。
これは、案外うまくいくかもしれない、と。




