1534年3月4週目。島津本家が帰宅後文を2通書く。八郎家との縁談の約束。八郎の戦への正規兵の援軍約束。
島津本家の一行が居城へ戻ると、忠良は休む間もなく家臣を呼びつけた。
「すぐに文を書け」
「はっ」
「一通は姫たちへ」
「もう一通は、八郎殿へ渡すようにせよ」
家臣たちは慌てて硯を整える。
忠良は座に腰を下ろすと、しばらく黙ってから口を開いた。
「実久殿の領地を見てきた」
「市が動いておった」
「ただ動いているだけではない」
「農民の借金まで消えておる」
「それを、この目で見た」
筆を持つ家臣の手が、少し止まる。
「その上で、八郎殿へ頼む」
「島津本家にも、市を導入していただきたい」
「ただし、最初から全領ではない」
「一部じゃ」
忠良が尋ねる。
「どの程度をお考えで?」
「三万五千石分」
隆久は即答した。
「今、うちが持つ十四万石ほどのうち、四分の一」
「まずそこで様子を見る」
「市を入れ、芋を植え、商家衆と農民の借金がどう減るかを見る」
「そこから増やす」
家臣が顔を上げる。
「その見返りは、いかがいたしますか」
「縁談じゃ」
広間の空気が変わった。
「姫を、八郎殿の兄弟衆のいずれかへ嫁がせる方向で動く」
「ただし」
隆久は指を立てた。
「八郎殿は言うておった」
「両家の上の者だけで決めるのは良くない、と」
「本人たちが話し、納得するのがよい、と」
「それは分かる」
「わしも、あの場で聞いた」
「だが、これは外交上の話でもある」
「当主としての願いじゃ」
貴久は静かに頷いた。
「縁を結ぶ代わりに、市と芋の作付けをお願いする」
「それだけでは空手形になる」
忠良はさらに続けた。
「だから援軍も約束する」
「農繁期ゆえ、農民兵は出せぬ」
「だが、正規の侍衆、精鋭は出す」
「八郎殿が龍造寺、あるいは大友、大内と事を構えるなら、本家は援軍を出す」
「その文言を入れよ」
家臣たちは互いに顔を見合わせた。
「そこまでなさいますか」
「そこまでやる」
忠良は迷いなく言った。
「市を入れてもらうには理由が要る」
「縁談が一番きれいじゃ」
「だが、二郎、三郎、五郎の誰とどうなるかは、まだ分からん」
「文を送ったからといって、すぐ決まるものではない」
「ならば、こちらからも確かな札を切る」
「それが援軍じゃ」
貴久が低く言う。
「目先は龍造寺でございますか」
「そう見ておる」
「大友は、すぐ戦にはしたくなかろう」
「大内も尼子を見ている」
「だが、北肥後が動けば、龍造寺は黙っておらん」
「その時に本家がどう立つかを、今から示しておく」
忠良は今度は姫たちへの文について命じた。
「姫たちには、実久殿の領地を見たことを伝えよ」
「本当に暮らしが変わっておった、と」
「市があり、湯浴みがあり、農民が笑っておった、と」
「その上で、縁をつなげそうなら動け、と書け」
「無理に嫁げとは言わぬ」
「だが、今の縁は八郎殿が用意してくれたものだ」
「逃せば、次は大友から上から降ってくる縁かもしれん」
家臣が小さく呟いた。
「しかし、八郎殿を見ると……他の兄弟衆は霞みますな」
忠良は苦笑した。
「霞む」
「それは間違いない」
「八郎殿が異常すぎる」
「二歳半から四歳までで、国を動かす者など聞いたことがない」
「阿蘇を落とし、相良を降らせ、借金を消し、市を動かす」
「しかも、それを笑って話す」
「比べられる兄弟が気の毒なくらいじゃ」
「では、兄弟衆は物足りませぬか」
「物足りぬ」
忠良はあっさり言った。
「だが、ぼんくらではない」
「一郎は農を見る」
「三郎は料理を見る」
「五郎は人当たりがよく、人気がある」
「六郎、七郎の若いわっぱどもも、八郎殿の兄という立場で腐っておらん」
「わしなら、あの立場ならぐれる」
「一つ二つ下の弟が、あれほどの化け物ならな」
その言葉に、場に苦笑が広がる。
「もちろん、規格外すぎて、ぐれるにぐれられんというのもあるだろう」
「だが、それを差し引いても、家が壊れていない」
「兄弟が八郎殿を妬み潰さず、それぞれの役割を持っている」
「そこは大したものじゃ」
忠義が問う。
「では、凡庸であることも悪くない、と?」
「そうじゃ」
隆久は頷いた。
「全員が八郎殿のようなら、あの家はとっくに割れておる」
「凡庸だからこそ、歯車になれる」
「凡庸だからこそ、家の仲が保てる」
「五郎など、人気があると言われても偉そうにせん」
「おそらく分かっておるのだ」
「自分の人気は、八郎殿の船の上にあるものだとな」
「無自覚八割、自覚二割というところか」
家臣たちが小さく笑う。
「ただし」
忠良の声が少し厳しくなった。
「積極性は足りん」
「八郎殿がせっかく機会を作っておるのに、兄たちは踏み込まん」
「本当に八郎殿のためを思うなら、もっと自ら動かねばならん」
「そこは凡庸以下じゃ」
「ですが、細かな仕事はできる」
「そうじゃ」
「だから、夫としては悪くない」
「国を動かす男ではなくとも、家を支える男にはなれる」
忠良は筆を走らせる家臣を見た。
「姫たちにも、そこを書け」
「八郎殿に目を奪われすぎるな」
「兄弟衆を、八郎殿と比べて見るな」
「その者が何を担っているかを見よ」
「そして、縁を結べると思うなら動け」
「本家のためでもあり、自分のためでもある」
筆の音だけが広間に響く。
やがて忠良は、最後にぽつりと言った。
「凡庸でよい」
「ただし、八郎殿の物語の中で働ける凡庸でなければならん」
「それができるなら、島津本家もまだ走れる」
そうして二通の文は、夜のうちに船便で送り出された。




