1534年3月4週目。島津本家が分家実久の領分を通り、市が息をしていること。寺社の市について隠されていたこと。ツケが米でも払えることを知り関心と焦りを覚える
島津分家の領分を通る許しは、すぐに下りた。
「通るなら通られよ。ただし、道中、見えるものはよう見て帰られよ」
実久からの返書には、そんな意味の言葉が添えられていた。
それを読んだ隆久は、ふっと笑う。
「見逃すでないぞ」
「はい」
「市も、村も、農民の顔もじゃ」
「分家の者がどれほど変わったか、よう見て帰る」
忠義も静かに頷いた。
一行は船ではなく、陸路を選んだ。
表向きは帰国の道中である。
だが、誰もが分かっていた。
これは見物ではない。
偵察であり、確認であり、島津本家がこれから何を飲むべきかを測る旅であった。
「農民に露骨に聞くのはやめておけ」
隆久は馬上から低く言った。
「怯えられても困る」
「ただし、向こうから話すなら聞け」
「はい」
道を進むにつれ、家臣たちは自然と無口になっていった。
まず目についたのは、農民の顔である。
痩せていない。
俯いていない。
こちらを見て逃げる者はいても、どこか怯えきっているというほどではない。
それよりも、道端で荷を運ぶ者、野菜をまとめる者、米俵を数える者、子どもを連れて歩く女たちの顔に、妙な明るさがあった。
「……うちの領分とは違うな」
忠良がぽつりと漏らす。
貴久も頷いた。
「市が動いとる」
村の外れには、簡易の市が立っていた。
大きな市ほどではない。
しかし、商人が来て、農民が集まり、寺の者が帳面をつけ、神社の者が荷を預かっている。
「うちの領分の市は、ここまで賑やかではないぞ」
忠良が小さく呟いた。
「まだ隠しているものがあるな」
「隠している、でございますか」
「見せているだけでこれじゃ」
「見えていない仕組みがある」
一行が近づくと、農民たちがざわついた。
「島津本家のお侍様や」
「なんでここを通ってはるんや」
「前は喧嘩してた仲やろ」
その声は小さいが、耳には入る。
隆久は馬を止め、声をかけた。
「怖がらせるつもりはない」
「実久殿の許しを得て通っておる」
一人の年寄りの農民が、恐る恐る頭を下げた。
「それなら、ようございます」
「今は八郎殿のおかげで、仲良うされていると聞いております」
「千代姫様が嫁に行ってくださったおかげで、こちらは見違えるほどになりました」
忠良の目が細くなる。
「それほどか」
農民は少し迷ったあと、頷いた。
「はい」
「借金が消えました」
その言葉に、家臣たちが反応する。
「庄屋衆の借金も、わしら農民の借金も、順番に消えていきました」
「市も来てくれます」
「前は、買い物に行くにも遠かったんです」
「今は寺や神社のところへ、出市が来ます」
「こら、そこまで言うな」
別の農民が慌てて止める。
忠良は口元を緩めた。
「ほう」
「まだあるのだな」
農民たちはしまった、という顔をする。
「わしらが言うたとは言わんでください」
「言わぬ」
「で、その出市とは何じゃ」
年寄りの農民が観念したように答えた。
「市へ行けない者も多いんでございます」
「だから寺と神社が、一週ごとに交代で場所を出します」
「少し市より高く売られますが、その分は寄進にもなると聞いております」
「寺にも神社にも銭が入り、わしらは物が買える」
「便利で、ありがたいんです」
「商人は来るのか」
「来ます」
「結構来ます」
「売れますから」
「冬は布団がよう売れました」
「布団?」
隆久が思わず声を上げた。
「布団など高かろう」
「はい」
「けれど、ツケが利きます」
「ツケ?」
「現金でなくてもよいんです」
「米や野菜で払えます」
「そんなことがあるか」
「あるんです」
農民は少し誇らしげに言った。
「八郎商会は飯屋をたくさん持っておられます」
「米も野菜も肉も、使い道がある」
「だから、米で払えるんです」
「前は米を銭に換えようとすると買い叩かれました」
「持っていく手間がある、腐る、保管がいる、と言われて」
「でも今は、八郎様の市ならちゃんと見てくれます」
忠良は思わず貴久を見る。
貴久は黙って聞いていた。
「商人も安心して来るのか」
「はい」
「混みすぎるので、村ごと、庄屋衆ごとに来る時間が決められています」
「揉めないように、帳面もつけてくれます」
「だから、商人も怖がらずに来てくれます」
「……市が息をしているな」
忠良はぽつりと言った。
さらに進むと、湯浴み場も見えた。
すべての市にあるわけではない。
しかし少しずつ増えているのが分かる。
湯気が上がり、仕事帰りの男たちが笑いながら並んでいる。
子どもが走り、女たちが桶を抱え、商人が荷を下ろす。
ただの市ではない。
人が集まる場所になっていた。
「これは……」
貴久が息を吐く。
「領地が動いておりますな」
「ああ」
忠良は頷いた。
「土地を取るだけでは足りん」
「市を動かさねば、借金は減らん」
「借金が減らねば、農民は笑わん」
「農民が笑わねば、土地は太らん」
一行はそのまま分家領を抜け、自領へ入った。
すると、不思議なほど違いが分かった。
市はある。
人もいる。
だが、どこか薄い。
分家領で見た熱気がない。
荷の動きが少ない。
農民の顔に、まだ重さが残っている。
忠良は馬上で長く黙っていた。
やがて、低く言う。
「三万五千石を取ったと喜んでおったが」
「はい」
「結局、それは三万五千石分の面倒を見るということじゃ」
貴久は何も言えなかった。
領地とは、増えれば良いものではない。
人がいて、借金があり、飯が要り、仕事が要る。
そこまで背負って初めて、領地になる。
忠良は振り返り、分家領の方角を見た。
「実久め」
「ただ食われたわけではなかったか」
悔しさと、感心と、少しの焦りが混じった声だった。
「八郎殿の毒」
「確かに、よう効いておるわ」
その言葉を最後に、一行は無言で本家領へと進んでいった。




