1534年3月4週目。島津本家から島津分家の領分への通行許可の書状が届き思惑がわかりニヤニヤする実久。
島津分家、実久のもとへ一通の書状が届いた。
差出人は島津本家。
内容は簡潔だった。
「帰国の道中、船ではなく陸路を使いたい。ついては分家領を通らせてもらいたい」
それを読んだ実久は、しばらく黙ったあと、ふっと笑った。
「なるほどな」
そばに控えていた家臣が首をかしげる。
「いかがなされましたか」
「大方、見たくなったのだろう」
「見たくなった、とは」
「八郎殿の毒じゃ」
実久は書状を畳み、机の上に置いた。
「先だって、本家では八郎殿の兄上たちと姫君たちの茶会があったのだろう」
「はい。そのように聞いております」
「そこで聞いたのだ」
「阿蘇のこと」
「相良のこと」
「借金が消えていくこと」
「湯浴み場が増えていること」
「市が回っていること」
「そして、うちの領民の暮らしが変わり始めていること」
家臣は黙り込んだ。
実久は笑みを浮かべたまま続ける。
「通りたいなら通ればいい」
「拒む理由はない」
「ただし、本家もわしと同じ運命を辿るかもしれんがな」
「同じ運命、でございますか」
「そうじゃ」
実久は庭の方へ目を向けた。
「八郎殿の市を入れる」
「湯浴みを入れる」
「芋を植える」
「庄屋衆と農民の借金を消す」
「そうなれば、うちと同じく八郎殿の経済圏に入るということじゃ」
家臣は息を呑む。
「それは……本家にとっても屈辱では」
「屈辱だろうな」
実久はあっさりとうなずいた。
「島津は誇りの塊じゃ」
「武で立ち、血で守り、家名で人を従える」
「それが、四歳児の帳面と市に頭を下げることになる」
「貴久殿や忠良の大殿からすれば、面白いはずがない」
そこで、実久は少し皮肉げに笑った。
「だが、飲めるかどうかで器が分かる」
「飲めぬなら、古い誇りのまま沈む」
「飲めるなら、島津はまだ伸びる」
「……そこまでのものでございますか」
「そこまでのものじゃ」
実久の声は静かだった。
「わしは最初、八郎殿を侮っていた」
「庄屋の子」
「庄屋の八男」
「まだ四つ」
「いくら才があるとはいえ、こちらが武を持てば押せると思っていた」
「だが違った」
「八郎殿は、武でこちらを折ったのではない」
「飯で折った」
「銭で折った」
「借金の帳面で折った」
「そして領民の笑顔で折った」
家臣たちは顔を見合わせる。
「本家は、わしらをどう見ていたと思う?」
「……八郎殿に取り込まれた、と」
「そうだろう」
「実久は娘を嫁がせ、領分を八郎に食われた間抜けだと思っていたかもしれん」
「だが、通れば分かる」
「農民の顔を見れば分かる」
「市の賑わいを見れば分かる」
「湯浴み場に並ぶ者たちを見れば分かる」
「庄屋衆が息を吹き返しているのを見れば分かる」
「わしが何を飲んだのか」
「何を得たのか」
実久は書状を指で叩いた。
「本家は先日、三万五千石を得たと聞く」
「意気揚々と帰ってきたのだろう」
「だが同じ頃、八郎殿は阿蘇を落とし、国人衆を降らせ、相良まで抱え込んだ」
「動きだけ見れば四倍じゃ」
「それだけでも嫌なものだ」
「その上、隣の領地では借金が馬鹿馬鹿しい勢いで消えていく」
「農民が逃げ込んでくるほどの差が出るかもしれん」
「そこまで……」
「出る」
実久は即答した。
「人は腹が減れば動く」
「借金に潰されれば逃げる」
「隣に飯があり、仕事があり、借金を消してくれる土地があるなら、境目の民は必ず揺れる」
「本家の民も例外ではない」
家臣の一人が小さく言った。
「では、本家は八郎殿を恐れますか」
「恐れるだろう」
「だが、それだけではない」
実久はゆっくり立ち上がった。
「欲しくもなる」
「市が欲しい」
「湯浴みが欲しい」
「芋が欲しい」
「借金を消す仕組みが欲しい」
「そして、それを得るには八郎殿の枠に入るしかない」
庭の向こうでは、春の風が若葉を揺らしていた。
「このままなら、八郎殿は龍造寺を飲み込む」
「大友、大内ともぶつかるだろう」
「大内は今、尼子を見ている」
「九州に深く力を入れられぬ」
「一度崩れれば、九州から追い出すこともできる」
「南は北より取りやすい」
「大隅も、日向も、まだ国人衆の寄り合いが多い」
「島津が八郎殿の枠で動くなら、九州の半分はすぐに傘下へ入る」
「島津が逆らえば?」
「遅くなるだけだ」
実久は静かに言い切った。
「八郎殿が止まるとは思えん」
「島津がどうするかで、速さが変わるだけじゃ」
その場に重い沈黙が落ちた。
やがて実久は、にやりと笑った。
「だから通せ」
「丁重にな」
「そして見せてやれ」
「市を」
「湯浴みを」
「笑う農民を」
「帳面から借金が消えた庄屋衆を」
「我らが取られただけの間抜けではないと」
「八郎殿の毒を飲んで、何を得たのかを」
家臣たちは深く頭を下げた。
「承知いたしました」
実久はもう一度、書状を見下ろす。
「さて」
「本家は何を見るか」
「そして、何を飲むか」
その声には、かつて敵対した者への皮肉と、同じ島津としての期待が、半分ずつ混じっていた。




