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1534年3月4週目。相良の先に割譲された領地の庄屋衆、農民の借金完済。肉あん屋の鍋が改良済。高級湯あみ240万文分のツケを払い終わる。

三月第四週。

春の気配が濃くなり、田畑の支度が各地で始まりつつある頃、八郎商会では

いつもの帳面合わせが行われていた。

広間には帳面役、商人衆、各領地の代官、家臣たちがずらりと並ぶ。積まれた帳面は、

もはや小さな山のようである。

八郎は座布団にちょこんと座ると、いつもの調子で笑った。

「では、細かい帳面は皆さんで見ておいてください」

「私は大きいところだけお話しします」

その言葉に、家臣たちも苦笑しながら帳面へ目を落とした。もう誰も驚かない。

八郎がすべての数字を一つずつ読み上げるより、全体の流れを聞いた方が早いと、皆が分かっていた。

「まず一つ目です」

帳面役が一冊を開く。

「先日降ってくださった相良領ですが、その中でも先に割譲してくださった地域については、

庄屋衆と農民の借金が……」

そこで一度、言葉を切った。

八郎がにこりと笑う。

「全部終わりました」

一瞬、広間が静まり返る。

次の瞬間、どよめきが起こった。

「またですか!」

「早すぎます!」

「この前まで相良は銭がない、苗代もないと騒いでいたところでしょう!」

「半分の領地で農民、庄屋衆で千万文近い借財があったんですよ!」

八郎は肩をすくめた。

「順番ですよ」

「商家が回れば、農民も回ります」

「農民が回れば、市が回ります」

「市が回れば、税も増えます」

「だから最初に消すのはここなんです」

言っていることは単純だった。

しかし、それを本当にやれる者は他にいない。

帳面役たちは深く頷く。

「それと」

八郎は別の帳面を指した。

「高級湯あみですが、百二十万文を二か所」

「合わせて二百四十万文分の付けを消しました」

再び広間がざわつく。

「またそんな大金を……」

「八郎様、額の感覚がおかしくなっております」

「そうですか?」

「そうです」

「でも、皆さんも少し慣れてきたでしょう?」

「私はまだ慣れておりません!」

その返しに、広間中が笑いに包まれた。

八郎も笑いながら、さらに続ける。

「あと、大きい報告があります」

その一言に、職人衆の顔が明るくなった。

「肉あん用の鍋の調整が終わりました」

「おお!」

「ようやくですか!」

「はい。来週から販売開始です」

八郎は帳面を叩く。

「一店舗あたり、利益二百文を目標にします」

ある家臣が首を傾げた。

「二百文……ですか」

「そこまで大きくはないように聞こえますが」

八郎は悪戯っぽく笑った。

「皆さん、うちの市はいくつありますか?」

帳面役がすぐに答える。

「現在、四百三か所です」

「そうです」

「約四百店」

八郎は指を一本立てた。

「一店二百文なら小さい」

「でも四百店なら?」

帳面役たちが一斉に筆を走らせる。

「単純に一日八万文」

「稼働日と回転を見れば……」

「週に五十六万文ほど利益が増える可能性があります」

「その通り」

八郎は満足そうに頷いた。

「一つ一つは小さい」

「でも、積み重ねれば馬鹿にできません」

「だから私は、一店舗の利益を笑いません」

「積み重ねが一番強いんです」

その言葉に、広間の空気が少し引き締まった。

八郎商会は、もう小さな飯屋ではない。

市が四百を超え、湯浴みが増え、湯浴みが動き、商人が走り、証文が消えていく。

一つの店の二百文が、国を動かす数字になり始めていた。

「皆さん」

八郎は静かに言う。

「うちはもう小さな商家ではありません」

「気を引き締めましょう」

「はい!」

広間に力強い返事が響いた。

八郎は帳面を閉じ、今度は地図を見る。

「この豊かさを見せ続けること」

「それが、今の一番の戦です」

「肥後の国人衆も見ています」

「相良がどう扱われるか」

「阿蘇がどう変わるか」

「八郎領に入った土地の借金がどう消えるか」

「全部、見ています」

家臣の一人が尋ねる。

「では、北肥後の国人衆が降ってくる可能性も?」

「あります」

「ただし、こちらから仕掛けるつもりはありません」

「少なくとも今は」

八郎は地図の北を指す。

「気にするべきは、龍造寺、大友、大内」

「この三つです」

「こちらが北へ伸びれば、当然、向こうも見ます」

「だから守る準備は続けます」

「攻める準備ではなく、守る準備ですね」

「その通りです」

八郎は頷いた。

「こちらから戦を起こして得るものは少ないです」

「でも、向こうが仕掛けてくるなら受けて立ちます」

「それだけです」

若い家臣が遠慮がちに聞いた。

「では、当面は大きな戦はないと見てよろしいですか?」

「向こうが動かなければ、ありません」

「領地が増えるとすれば?」

「北肥後の国人衆の動き次第ですね」

「ただ、今は春です」

八郎は少しだけ表情を柔らかくした。

「農作業を邪魔したくありません」

「それが本音です」

皆が頷いた。

戦国の世であっても、米がなければ人は生きられない。

田植えの時期に農民兵を動かすことは、そのまま一年の飢えにつながる。

「もし戦になった場合は?」

「農民兵は極力使いません」

「侍だけ、精鋭だけで動きます」

「短く終わらせる」

「阿蘇の城攻めのように伸びることはあるかもしれませんが、長い目で見れば短期で済むようにします」

家臣が苦笑した。

「それは、よその大名も同じでしょうな」

「春に農民兵を出すのは、どこも嫌でしょう」

「そうです」

八郎も笑った。

「だから春は、案外戦が起きにくい」

「皆、田植えが大事なんです」

「戦より米」

「それが今の季節です」

広間に穏やかな笑いが広がる。

だが、その笑いの奥には緊張もあった。

八郎領は豊かになっている。

だからこそ、周囲は揺れる。

降る者も出る。

妬む者も出る。

警戒する者も出る。

「だからこそ」

八郎は最後に言った。

「この時期に借金を減らし、市を増やし、商いを広げます」

「一年後には、また誰も追いつけないところまで走ります」

帳面役がぽつりと呟いた。

「……本当に」

「戦より帳面の方が恐ろしいですな」

その一言に、広間中が大笑いとなる。

八郎も照れくさそうに頭をかいた。

「それが私の戦です」

「槍は振れませんから」

「帳面で勝ちます」

その言葉に、一同は大きく頷いた。

三月第四週の帳面合わせは、笑いと緊張と、確かな前進の中で締めくくられた。

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