1534年2月。帰宅後戦費の計算をして島津分家の実久様に280万文を支払う。実久から槍働きではないが人の心を攻めるのがうまいと評される。
阿蘇攻めから戻った翌日。
八郎はいつものように朝から帳面を眺めていた。
「さて……戦費の整理ですね」
その言葉に周りの者が苦笑する。
「昨日戦から戻ったばかりですよ?」
「だから早いうちにやるんです。銭の流れは放っておくと濁りますから」
そう言って八郎は紙に数字を書いていく。
「今回、八郎家として動かした銭はおよそ六百五十万文です」
「六百五十万……」
周りがざわつく。
「まあ、そのうち百万文は僕が道中でばら撒きましたから、実質戦費としては五百五十万文ですね」
「いや、その百万文を軽く言うのがおかしいんですけど」
家臣が思わず突っ込む。
八郎は笑った。
「いいんですよ。阿蘇の民にも飯を食べてもらいましたし、道中の村にも銭を落としました。
あれは無駄金じゃありません」
「敵だった土地ですよ?」
「昨日まで敵だっただけです。今日からうちの民でしょう」
その一言に周りは黙る。
「だから最初の印象が大事なんです。城を落として奪った領主と思われるか、飯と仕事を持ってきた
領主と思われるか。それで十年後が変わります」
そして八郎は別の包みを用意させた。
「これは島津のお父様に」
一郎の屋敷。
千代姫、実久、一郎がいるところへ八郎が訪れた。
「お疲れのところ失礼します」
「いやいや、阿蘇を落として数日で普通に動いている八郎殿の方がおかしいと思うがな」
実久が笑う。
八郎も笑いながら頭を下げた。
「先日の戦、島津分家の皆様には本当に助けていただきました」
そして箱を差し出す。
「こちら戦費になります。二百八十万文です」
「……二百八十?」
実久の動きが止まる。
「はい」
「待て待て。多すぎんか?」
「いえ。二千の兵を出していただきました。兵糧、移動、危険手当を考えたら当然です」
実久は箱を見る。
「これだけあれば……」
少し声が小さくなる。
「侍たちの借財もかなり減らせる」
八郎は頷いた。
「はい。それを考えております」
「……読んでおったか」
「先日、帳面を見せてもらいましたから」
八郎は静かに言う。
「借金の数字を見た後で、この銭を受け取るのと、何も知らず受け取るのでは意味が違います」
「嫌なことを言う」
実久は苦笑した。
「四歳児とは思えんぞ」
「褒め言葉として受け取ります」
「褒めておるわ」
実久は笑った。
「今回の戦でよう分かった」
「何がですか?」
「八郎殿は、槍働きの将ではない」
八郎は首を傾げる。
「弱いってことですか?」
「違う」
実久は首を振る。
「人の心を攻めるのがうまい」
千代姫が横で少し笑う。
「お父様、それだと八郎様が悪者みたいです」
「あ、そうですよ。千代姉さんの前で性格悪いみたいに言わないでくださいよ」
八郎が冗談っぽく抗議する。
実久は笑った。
「いや、この時代では最大の褒め言葉じゃ」
そして真剣な顔になる。
「普通の武士なら阿蘇の城を見たら、まず門を破ることを考える」
「はい」
「兵をぶつけ、血を流し、武功を競う」
「でしょうね」
「だが八郎殿は違った」
実久は指を折る。
「まず飯を炊いた」
「はい」
「夜寝かせなかった」
「はい」
「逃げる者を殺さなかった」
「はい」
「そして最後に戦う気力がなくなったところで攻めた」
「そうですね」
「嫌な戦じゃ」
八郎は苦笑した。
「でも死んだ人は少なかったでしょう?」
そこで実久は黙る。
「……それなんじゃ」
「?」
「そこなんじゃよ」
実久は八郎を見る。
「普通、城を落とせば恨みが残る」
「はい」
「だが阿蘇の兵の八割が残った」
「ありがたいことです」
「普通ではない」
実久はため息をつく。
「力で勝つだけなら強い武将はいる」
そして続ける。
「だが、勝った後に相手が味方になる戦をする者は少ない」
八郎は少し考える。
「たぶん、僕が刀も槍も使えないからですよ」
「どういう意味じゃ?」
「お侍さんは強いから、強い方法を考えます」
八郎は自分の小さな手を見る。
「でも僕は四歳です」
そして笑う。
「刀一本振れません。槍一本持てません」
一同が静かになる。
「だから考えるしかないんです」
「……」
「銭をどう動かすか」
「人がどう思うか」
「腹が減ったらどうなるか」
「家族がいたらどう動くか」
「そういうところしか僕は戦えないんです」
千代姫が微笑む。
「だから八郎様なのですね」
「もっと褒めてもいいですよ」
「そこで台無しにするところも八郎様ですね」
皆が笑う。
実久も大きく笑った。
「まったく締まらん」
そして銭の箱を見る。
「だが、この二百八十万文。ありがたく受け取る」
「お願いします」
「侍たちに渡す。借財を減らせと言う」
「それがいいと思います」
八郎は頷く。
「借金が減れば、人は前を向けますから」
実久は小さく呟いた。
「……千代が一郎殿と結ばれて、本当に良かった」
千代姫が顔を赤くする。
「父上」
「いや、本心じゃ」
実久は笑った。
「島津分家は、良い船に乗ったのかもしれんな」
八郎は首を振る。
「沈まないよう頑張ります」
「まだそれを言うか」
「言いますよ」
八郎は笑った。
「船は大きくなった時ほど、穴が空いたら沈むのも早いですから」
実久は呆れたように笑う。
「四歳児の言葉ではないな」
一郎も頷く。
「昔からです」
千代姫も微笑んだ。
「でも、そういう八郎様だから皆ついていくのでしょうね」
そう言われて、八郎は少し照れながら茶を飲むのだった。




