八郎2歳半。1532年6月。八郎の目標は漬物混ぜ飯を売り銭を稼ぐのが目標。そのために理解者を増やさないと。寺子屋の和尚に目をつける。
八郎として生まれて、二年半ほどが過ぎた。
ようやく体が思うように動き始めた。
歩ける。
走ることも少しできる。
飯も自分で食える。
そして何より大きいのは、言葉が使えるようになってきたことだった。
(やっとや……)
赤ん坊の頃は地獄だった。
頭の中には四十二歳まで生きた博之の記憶がある。
なのに、口から出るのは泣き声だけ。
何かを伝えようとしても伝わらない。
腹が減った。
暑い。
寒い。
それすら泣くことでしか表せない。
だが、二歳を過ぎた頃から少しずつ変わった。
単語が出る。
短い文が出る。
周囲の言葉を真似るふりをしながら、言いたいことを選べるようになった。
もちろん、いきなり大人のように話すわけにはいかない。
そんなことをすれば気味悪がられる。
だから八郎は、少しずつ言葉を増やした。
「ちちうえ」
「ははうえ」
「めし」
「みず」
「これ、なに」
最初はそれだけ。
だが、頭の中では常に考えていた。
(まずは意思疎通や)
知識があっても、伝えられなければ意味がない。
農具を変える。
飯を売る。
余った魚を使う。
そんなことを考えても、今の自分は庄屋の八男。
しかも二歳半の幼児である。
誰がまともに聞くのか。
まずは、話せる子供。
よく物を覚える子供。
そう思われる必要があった。
◇
兄たちは時々、寺へ通っていた。
寺では和尚が子供たちに読み書きを教えている。
立派な学問所ではない。
村の子供に文字を見せ、簡単な数を教える程度。
だが、この時代ではそれで十分だった。
文字が読める。
数が数えられる。
それだけで人より役に立つ。
八郎は兄に背負われたり、手を引かれたりしながら、寺へ連れて行かれることがあった。
最初はただの付き添いだった。
兄たちが学ぶ間、端で座っているだけ。
しかし八郎にとっては貴重な時間だった。
(ここやな)
家の中で大人に何か言っても、子供の戯言で終わる。
だが和尚は違う。
文字を知っている。
数を知っている。
村人から米や野菜を受け取り、子供に教え、相談にも乗る。
この人に気づいてもらえれば、俺の話を聞いてもらえるかもしれない。
その日も和尚は、木の板に文字を書いていた。
「これは、あ」
子供たちが声を合わせる。
「あ」
「これは、い」
「い」
八郎は端で聞いていた。
あまりに簡単だった。
だが、簡単だからこそ見せ方が難しい。
いきなり全部読めば化け物扱いされる。
少し早い。
少し賢い。
その程度に見せる必要がある。
和尚がふと、八郎を見た。
「八郎も聞いておるのか」
八郎はこくりとうなずいた。
「これは何と読む?」
和尚が戯れに板を見せる。
そこには、先ほど何度も読まれていた文字があった。
八郎は少し間を置いた。
幼児らしく首を傾げる。
そして言った。
「あ」
寺の中が静かになった。
兄が目を丸くする。
「八郎、分かるのか?」
「きいた」
八郎は短く答えた。
和尚は少し笑った。
「ほう。耳がよいのう」
それで終わるかと思った。
しかし和尚は、次の文字を見せた。
「では、これは」
「い」
「これは」
「う」
和尚の目が変わった。
八郎はそこで黙った。
全部は答えない。
ここで見せすぎると危ない。
「……二つでよい。よう覚えた」
和尚はそう言ったが、その声には驚きが混じっていた。
◇
数日後。
今度は数だった。
小石を並べる。
「ここに石が三つある。ひとつ取れば、いくつ残る」
兄たちが考える。
八郎は横で見ていた。
簡単すぎる。
だがこの時代の子供にとっては大事な勉強だった。
和尚がまた、八郎に聞いた。
「八郎、分かるか」
「ふたつ」
答えた瞬間、兄が笑った。
「こいつ、ほんまに分かっとるんか」
和尚は石を変えた。
「では、二つに二つを足すと」
「よっつ」
「五つから二つ取ると」
「みっつ」
今度こそ、誰も笑わなかった。
和尚はじっと八郎を見る。
「……まだ二つと少しであろう」
「うん」
「誰に教わった」
八郎は兄たちを指した。
「あにうえ、きいた」
嘘ではない。
兄たちが習っているのを聞いていた。
ただ、それを理解する頭が前世からあるだけだ。
和尚は黙った。
しばらくして、静かに言った。
「この子は、耳がよいだけではないな」
その一言で十分だった。
(まず一人)
八郎は心の中で息を吐く。
自分の話をまともに聞いてくれるかもしれない人間。
最初の一人。
それができた。
◇
もちろん、まだ何かを始められるわけではない。
二歳半の体では米俵も持てない。
包丁も使えない。
火のそばに近づけば怒られる。
街道で飯を売るなど、まだ先の話だ。
だが、道は見えた。
まず和尚に認めてもらう。
次に父と母に、八郎はただの幼子ではないと思ってもらう。
それから兄たちを動かす。
米を少し分けてもらう。
漬物を刻む。
笹で包む。
街道で売る。
ただの握り飯なら五文。
だが味噌と漬物を混ぜ、腹持ちをよくすれば十文でも売れるかもしれない。
銭を稼ぐ。
飯を増やす。
身なりを整える。
家族が腹いっぱい食えるようにする。
そして村も。
(まずは食えるようにせなあかん)
それが八郎の最初の目標だった。
だが、その前に必要なものがある。
信用。
言葉。
話を聞いてくれる相手。
二歳半の八郎は、ようやくその入口に立った。
まだ戦えない。
まだ商いもできない。
けれど、八郎の成り上がりは、すでに始まっていた。




