1533年10月2週目~ 千代姫が一郎に市を案内されたあと、大きな湯船につかる。侍女たちは千代が一郎を好いているのを茶化すwww
市を見て回った後、一郎と千代姫たちは高級湯浴みへ向かった。
男女別に分かれた大きな湯。
足を伸ばして肩まで浸かれる。
千代は湯の中で思わず息を吐いた。
「……これは」
「十文払う価値がありますね」
同行していた侍女たちも頷く。
「姫様」
「これは戻ったら欲しいと言う者が出ますよ」
「そうですね」
千代は湯気の向こうを見る。
ただ体を洗う場所ではない。
人が集まる場所。
話をする場所。
疲れを癒やす場所。
八郎が作るものには、いつも別の意味がある。
そう考えていると、横から侍女が笑った。
「ところで千代様」
「何です?」
「正直になられた方がよろしいのでは?」
「何の話です」
侍女たちは顔を見合わせてニヤニヤする。
「一郎様ですよ」
千代の動きが止まった。
「……なぜそこで一郎殿が出るのですか」
「お気に入りでしょう?」
「違います」
即答だった。
だが早すぎた。
侍女たちはさらに笑う。
「ほら」
「何がほらなのです」
「千代様は嫌いな相手なら、そもそも話もしません」
「今日はずっと話しておりました」
「それは案内役だからでしょう」
「鹿の話」
「畑の話」
「八郎様の話」
「ずっと楽しそうでした」
千代は少し顔を背ける。
「……ただ」
「ただ?」
「他の男よりは、ましだと思っただけです」
その瞬間、侍女たちが声を上げる。
「あら」
「出ました」
「千代様の『まし』は相当上ですよ」
「違います」
「違いません」
一人の年上の侍女が優しく言った。
「姫様」
「強い男が好きなのは存じています」
「ですが、強さは刀だけではありません」
千代は黙る。
「一郎様は、鹿を狩った姫様を珍しいものを見る目で見ませんでした」
「普通に獲物として扱い」
「普通に仕事として受け入れ」
「普通に感謝してくれました」
「……」
「そういう男は多くありませんよ」
別の侍女も続ける。
「それに父上様のお考えもあります」
「島津と八郎様の縁」
「悪い話ではありません」
千代は慌てる。
「そういう話はまだ早いです」
「私には私の考えがあります」
「私の時があります」
「勝手に進めないでください」
その反応に侍女たちはまた笑う。
「嫌ではないのですね」
「だから!」
湯場に楽しげな声が響く。
「もう……」
「そういうことに疎いのですから」
「あまり責めないでください」
千代は湯に口元まで沈んだ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一方、男湯。
一郎は何も知らず、普通に湯に浸かっていた。
「いやあ」
「これは八郎すごいな」
「足伸ばせるだけでこんな違うんやな」
完全に湯浴みを楽しんでいる。
恋の話など一切頭にない。
しばらくして外で合流すると、一郎はいつも通りだった。
「では館へ戻りましょうか」
「はい」
千代は少しだけ一郎を見る。
(本当に何も気づいていない……)
少し腹立たしいような。
少し安心するような。
不思議な気持ちだった。
館へ戻る途中。
千代は違和感に気づく。
「今日は宴ではないのですか?」
いつもなら笑い声。
料理の匂い。
人々の騒ぎ。
だが今日は違った。
掛け声。
足音。
木槍がぶつかる音。
広場では農民や町人が訓練をしていた。
「構え!」
「突け!」
「引け!」
侍たちが指導している。
千代は目を丸くする。
「これは……兵ですか?」
一郎が首を振る。
「半分違います」
「半分?」
「普段は農民、職人、商人です」
「でも、いざという時に自分たちを守れるようにしています」
千代は驚いた。
普通、民は守られるもの。
戦うのは武士。
しかしここでは違う。
「嫌がらないのですか?」
「むしろ参加しています」
一郎は笑った。
「終わったら飯がありますから」
「飯?」
見ると訓練を終えた者たちが列を作っている。
その先には大きな湯浴み。
さらに奥には食事。
「訓練」
「湯浴み」
「飯」
「八郎が作った流れです」
千代は呆れる。
「戦の備えまで食につなげるのですね」
「はい」
「八郎ですから」
その時。
さらに奥で大勢が集まっているのが見えた。
中央に座る小さな子供。
八郎だった。
周囲には商人。
侍。
農民。
職人。
帳面が山積みになっている。
千代が尋ねる。
「……あれは何です?」
一郎が苦笑する。
「帳面を見る会です」
「帳面?」
「はい」
「誰が誰に借りている」
「何が足りない」
「どこの仕事が少ない」
「全部聞いています」
「領主が?」
「はい」
「三歳児が」
千代は言葉を失う。
ちょうど八郎の声が聞こえた。
「だからですね」
「借金を隠したら駄目です」
「隠したら助けられません」
「全部出してください」
「その上で、どうやって返すか考えましょう」
商人が笑う。
「八郎様」
「また証文消す気ですか?」
「できる範囲ですよ」
「僕だって無限に銭持ってません」
周囲から笑いが起こる。
千代はその光景を見つめた。
領主が命令しているのではない。
一緒に考えている。
だから民が集まる。
だから一揆が起きない。
「……父上が見てこいと言った理由」
「少し分かった気がします」
一郎が言った。
「変でしょう?」
千代は首を振った。
「いいえ」
「不思議ですが」
「悪くありません」
その視線の先では、小さな八郎が今日も大きすぎる領地の帳面と戦っていた。




