1533年7月2週目。着々と進む八郎の領地経営。薩摩川内の庄屋衆が完済の礼で現物寄付してくれたので帳簿がよくなる
七月二週目。
八郎の館では、また帳面合わせが始まっていた。
もはやこれは、領内の恒例行事になっていた。
最初は皆、帳面を見るのを嫌がった。
借金が見える。
未払いが見える。
どうにもならない現実が見える。
けれど今は違う。
帳面を開けば、前に進んでいることが分かる。
「では、薩摩川内からです」
八郎が筆を持つ。
「今週は少し特殊です」
庄屋衆が、どこか誇らしげな顔をしていた。
今週、薩摩川内では、農民たちが飯屋の材料を現物で出していた。
八郎への感謝だった。
一生返せないと思っていた証文が消えた。
利息も下がった。
だから今週だけは、米も野菜も魚も薪も、できる範囲で出したい。
そう言って、皆が持ち寄ったのだ。
「本当に、よかったんですか」
八郎はまだ少し困った顔をしている。
庄屋が笑った。
「今週だけです」
「ずっとは無理です」
「でも節目節目には、またやらせてくだされ」
「八郎様には、それだけの恩があります」
和尚が横で頷く。
「受け取るのも仕事じゃ」
八郎は小さく頭を下げ、帳面に戻った。
「では」
「今週の利益です」
「通常の市利益が七万文」
「そして本来なら原価として支払う三十九万文分」
「これが現物でいただいたため、今週は利益に乗ります」
広間がざわつく。
「つまり……?」
「四十六万文ほどの利益扱いです」
「おお……」
商人衆が目を丸くする。
ただし八郎はすぐに続けた。
「ただし、これは貯め込みません」
「以前、十三の市を急ぎで動かすために」
「鍋、椀、屋台、運搬、雑費」
「合わせて三十万文ほど掛けでお願いしていました」
「この三十九万文分の上乗せ利益は」
「まずその返済に充てます」
商人衆の顔が一気に明るくなった。
「ありがたい!」
「八郎様は本当に返してくださる」
「これなら、また貸せますわ」
商人の一人が笑う。
「掛けが焦げぬ相手ほどありがたいものはありません」
八郎は頷く。
「また借りるかもしれませんので」
「返せる時に返します」
父が苦笑した。
「三歳児の台詞ではないな」
「帳面がそう言ってます」
さらに寺社市の売上も上がり始めていた。
証文が消えたことで、人々が買うようになったのだ。
少し良い布。
少し高い甘味。
道具。
湯浴み。
「湯浴みも少しずつ数が増えています」
八郎は言った。
「ここは焦らず、徐々にやりましょう」
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次は薩摩南側の新領地だった。
こちらも空気は明るい。
最初は味が整わず、利益も薄かった。
だが、料理教室と弟子の配置が効いてきた。
「商家衆の証文ですが」
八郎が帳面を見る。
「残り百二十八万文です」
新領地側の者たちが息を飲んだ。
「百二十八……」
「最初、四百五十万文あったんですよな」
「もうそこまで……」
「はい」
「ただし、武士の借金や城の借金は一文も減っていません」
八郎は正直に言った。
「そこはまだです」
けれど、誰も絶望しなかった。
むしろ顔は明るい。
「それでも前に進んでおります」
「商家衆が楽になれば、次は武士も見えてくる」
「城の借りも、いつかは」
「市の利益は九万文まで上がりました」
八郎が続ける。
「味が安定してきています」
「売れ残りも減りました」
「寺社市、岩見もそれぞれ利益が出始めています」
料理人たちは胸を張った。
最初は笑われた料理教室。
けれど今は、それが領地の借金を減らしている。
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最後は南肥後だった。
こちらはまだ遅れている。
だが、もう皆の目が変わっていた。
「原価が動くことが大事」
その意味が、ようやく浸透し始めていたのだ。
「南肥後ですが」
「商家衆の証文は、前回三百三十九万文」
「今週の市原価と寺社市の動きを合わせて」
「残り二百五十八万文です」
南肥後側の者たちは、しばらく黙った。
そして一人が震える声で言った。
「本当に……減っている」
「二週分で」
「九十万文以上ずつ……」
「これほど早く……」
商人も涙ぐんだ。
「返らぬと思っていた証文が」
「品物になって戻ってくる」
「売上になって戻ってくる」
「八郎様様です」
誰かが言った。
周囲が一斉に頷く。
ただし利益はまだ小さい。
「利益は二万文ほどです」
担当者は悔しそうに言った。
「薩摩南側に比べると、まだまだです」
八郎は首を振る。
「焦らなくていいです」
「まずは原価が動くこと」
「次に味」
「次に利益」
「順番です」
「でも」
「追いつくつもりでお願いします」
そう言うと、南肥後の料理人や商人たちは力強く頷いた。
それぞれの領地が、自分たちの数字を意識し始めていた。
薩摩川内は、返済を終えて次の商売へ。
薩摩南側は、追い上げながら利益を伸ばす。
南肥後は、原価を動かし借金を消す段階。
和尚は笑った。
「国ごとに競争になってきたのう」
八郎は帳面を閉じる。
「競争というより、改善です」
「みんな生活がかかってますから」
父が言った。
「しかし、皆の顔が変わったな」
八郎は頷いた。
「借金が減ると、人は前を向けます」
「前を向いた人は、よく働きます」
「よく働けば、また銭が回ります」
広間にいた者たちは、その言葉を静かに聞いていた。
刀で脅しても、人は動く。
だが、未来が見えた時の人は、もっと強く動く。
八郎の領地は、そういう場所になり始めていた。




