1533年6月4週目。証文合わせの時間。薩摩川内の領地。その南の領地の庄屋衆の証文がみるみる消えていく。
六月四週目。
八郎の館では、また恒例になりつつある帳面合わせが始まっていた。
最初は誰もが嫌がっていた。
借金。
未払い。
隠したい数字。
見たくない現実。
しかし今は違う。
商人衆も、庄屋衆も、武士たちも、どこか期待した顔で集まっている。
理由は一つ。
帳面を見るたびに、借金が減っているからだった。
「では、まず元の薩摩川内の領地からです」
八郎が帳面を開く。
「庄屋衆の証文ですが……」
全員が息を飲む。
最初は百六十万文以上あった。
誰も返せると思っていなかった。
利息だけ払い続け、いつか潰れる。
そう思っていた証文。
それが――。
「寺社市の売掛分も合わせて」
「残り十九万文です」
しばらく沈黙。
そして。
「おおおおおお!」
声が上がった。
「十九万!?」
「もう終わりではないか!」
「来週には消えるぞ!」
庄屋衆は顔を見合わせる。
数ヶ月前なら考えられなかった。
領主に税を納める。
商人に利息を払う。
それだけで精一杯だった。
しかし今は違う。
「来週」
「今まで通り市が回れば」
「庄屋衆の証文は全部消えます」
八郎が言う。
「ただし」
全員が静かになる。
「ここからが本当の商売です」
「借金返済だけでは駄目です」
「利益を増やします」
「寺社市も慣れてきました」
「これからは少し高い商品も置いてください」
商人が首を傾げる。
「高い物ですか?」
「はい」
「今までは皆、借金がありました」
「だから買えませんでした」
「でも」
「証文が消えます」
「銭を持つ人が増えます」
「余裕が出ます」
「そうしたら少し良い物が売れます」
商人衆の目が変わった。
「なるほど……」
「今までは売れなかっただけ」
「客がいなかっただけか」
「はい」
「だから」
「布」
「道具」
「少し良い食べ物」
「置いてみてください」
「皆さんの利益も増えます」
その言葉に商人衆は深く頭を下げた。
「借金を返すだけではなく」
「その後の商売まで考えているとは……」
和尚が笑う。
「三歳児とは思えんのう」
八郎は帳面を見ながら答える。
「まだ山ほど残ってますから」
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次。
新しく加わった薩摩南側の領地。
こちらは空気が少し違う。
まだ始まったばかり。
庄屋衆の証文は大きい。
「報告します」
「市の利益ですが」
「先週二万文」
「今週は四万文です」
周囲が少し明るくなる。
「倍になった!」
「味が整ってきたか」
「人も慣れました」
「料理教室の効果もあります」
だが八郎が見る場所は違った。
「仕入れは?」
「九十万文です」
「なら十分です」
もう周りも意味が分かっていた。
利益ではない。
今、大事なのは流れ。
「九十万文分」
「庄屋衆の証文と合わせます」
筆が動く。
「三百七十八万文から」
「九十万文引いて」
「残り二百八十八万文です」
新領地側の者たちは言葉を失った。
「……また?」
「また九十万文減ったのか?」
「はい」
八郎は普通に答える。
「まだ時間はかかります」
「でも進んでいます」
商人の一人が苦笑した。
「八郎様」
「感覚がおかしくなります」
「普通、九十万文の借金など」
「何年も苦しむものです」
「それを毎週減らしているのですぞ」
和尚が笑う。
「本人だけ分かっておらん」
「いや」
八郎は首を振る。
「まだ武士の借金があります」
「城の借金があります」
「だから油断できません」
「それと」
「来週から湯あみも増えます」
「三十台ほど動く予定です」
「一台ごとの利益は小さいです」
「でも仕事になります」
「人を雇えます」
「湯を沸かす薪が売れます」
「桶屋も仕事になります」
「そういう小さい流れを増やします」
職人衆は嬉しそうだった。
戦で壊れたものを直すだけではない。
新しい仕事が生まれている。
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そして最後。
八郎は三冊目の帳面を見た。
顔が少し重くなる。
周囲も気づいた。
「八郎様?」
「問題ですか?」
「はい」
八郎は頷く。
「肥後南部です」
広間が静かになる。
最近加わったばかりの土地。
まだ本当の数字が見えていない。
「薩摩側は形ができました」
「市」
「寺社市」
「岩見」
「飯屋」
「動き始めています」
「でも肥後南部は」
「これからです」
八郎は帳面の束を見る。
「たぶん」
「同じくらいあります」
「庄屋衆」
「武士」
「城」
「隠れ借金」
「全部合わせれば」
「また、とんでもない数字になると思います」
和尚は楽しそうに笑った。
「また三歳児が帳面と戦じゃな」
八郎はため息をついた。
「戦より大変です」
その言葉に皆が笑った。
だが誰も不安そうではなかった。
なぜなら、この数週間で見てしまった。
刀で奪うより。
飯を作り。
市を回し。
仕事を増やす方が。
領地を強くするということを。




