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1533年6月。借金の山が消えて喜ぶ中八郎は冷静。そろそろ捕虜が帰宅する。先方の態度次第で事件が起こるかも

 広間の空気は明るかった。

 商人衆も、庄屋衆も、武士たちも。

 一週間で三十九万文の証文が消える。

 その事実だけで、皆の顔色はまるで違っていた。

「これならいけるぞ」

「何年も苦しんだ借りが、本当に消えるかもしれん」

「八郎様について正解だった」

 そんな声があちこちから聞こえる。

 だが。

 その中心にいる八郎だけは、帳面を見ながら難しい顔をしていた。

 和尚がそれに気づく。

「なんじゃ」

「皆喜んどるのに、お前だけ渋い顔じゃな」

 八郎は顔を上げる。

「いえ」

「皆さんが喜んでくださるのはありがたいです」

「でも……」

「でも?」

「次の問題が来ます」

 その言葉に広間が静まった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「何の問題です?」

 商人の一人が尋ねる。

 八郎はゆっくり答えた。

「帰った捕虜の方々です」

「……捕虜?」

「はい」

「南と北から攻めてきた方々です」

「私たちは捕まえた方々から武具を預かりました」

「怪我を治して」

「飯を食べてもらって」

「帰りたい人は帰ってもらいました」

「ですが……」

 八郎は指を折る。

「武具なし」

「借金あり」

「敗戦」

「そして領主様が敗戦処理をしない」

「その状態で帰っています」

 武士たちの表情が変わった。

「……確かに」

「武具を失った責任は重い」

「次に戦があれば買わねばならん」

「でも銭がない」

 八郎は頷く。

「そうです」

「そこです」

「考えられる動きは三つあります」

「一つ」

「家族を連れてこちらへ来る」

「二つ」

「領主様を縛って連れてくる」

 その瞬間、数人がむせた。

「三つ」

「領主様自身が頭を下げて、傘下に入りたいと言ってくる」

 広間が静まり返る。

 和尚だけが笑っていた。

「くくく」

「何ですか?」

「いや」

「三歳児がそこまで読むかと思っての」

 八郎は首を傾げる。

「普通考えません?」

「考えんわ」

 即答だった。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「和尚様はどう思われます?」

 八郎が聞く。

 和尚は腕を組む。

「まあ……」

「出るじゃろうな」

「ですよね」

「うむ」

「南から千」

「北から千」

「全部ではないにせよ」

「かなり無理して兵を出した」

「その結果」

「負けた」

「武具を失った」

「何も得なかった」

「領主としては厳しい」

 和尚の言葉に武士たちも頷く。

「しかも」

 八郎が続ける。

「次に戦をするなら」

「槍」

「弓」

「鎧」

「買い直しです」

「でも誰がお金を出すんですか?」

 誰も答えない。

「兵?」

「もう借金があります」

「領主?」

「戦費で苦しい」

「商人?」

 八郎は商人衆を見る。

「貸せますか?」

 一人が苦笑した。

「……正直」

「難しいでしょうな」

「前回負けている相手に、また戦費を貸すとなると」

「返済の見込みがありません」

「ですよね」

「だから」

「向こうでも必ず話になります」

「八郎のところでは借金を整理してくれた」

「飯が食えた」

「仕事があった」

「こちらでは武具代を払えと言われる」

「そう比較されます」

 父がため息をついた。

「また増えるのか」

「可能性はあります」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「でも」

 八郎は帳面を閉じた。

「慌てません」

「まず今の領地です」

「十三市」

「湯浴み」

「寺社市」

「これを回します」

「来週も」

「三十九万文」

「仕入れで証文を消す」

「そこを目標にしましょう」

 その瞬間。

 空気が変わった。

「三十九万……」

「またか」

「また一週間でか」

 庄屋衆が笑い出す。

「昔なら夢物語じゃった」

「今は来週の予定になっとる」

 商人も笑う。

「八郎様」

「恐ろしいですな」

「戦より帳面の方が強い」

「違います」

 八郎は首を振った。

「飯です」

「みんなが食べて」

「働いて」

「銭が回るだけです」

 和尚が大笑いした。

「だから恐ろしいんじゃ」

「普通、領地は刀で取る」

「お前は飯で取る」

「取ってません」

「借金返してるだけです」

「それが一番怖いわ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 広間に笑い声が広がった。

 だが誰も油断していなかった。

 南と北。

 敗れた国人衆の領地。

 そこでは間違いなく、次の波が起ころうとしていた。

 八郎は静かに帳面を見る。

「さて……」

「次は何人分の借金でしょうね」

 その一言に、全員が苦笑するしかなかった。

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