1533年4月。4月4回目の市の前。うちの借金無くなりました母上。あと六郎兄様七郎兄様の話。
四回目の市が近づいていた朝。
いつものように家族全員で朝飯を囲んでいた。
最近では、この時間が家族の話し合いの場になっている。
母がふと聞いた。
「そういえば八郎」
「はい、母上」
「最近、帳面ばっかり見とるけど、うちの借金はどうなっとるん?」
その瞬間。
父と兄たちの箸が止まった。
八郎は普通に答える。
「あ、それですか」
「はい」
「一万六千文、全部消しました」
「……」
母が固まった。
「え?」
「ですから、うちの証文はもうありません」
「商人さんから返してもらいました」
「……はあ?」
母の声が一段低くなった。
父を見る。
「あんた」
「はい?」
「聞いてないんやけど」
父は気まずそうに目を逸らす。
「あー……」
「庄屋衆の集まりでな」
「八郎が払ってくれてな」
「……」
「言うの忘れとった」
その瞬間。
「忘れる話ちゃうやろ!」
母の声が響いた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「うちらな」
「その一万六千文でどれだけ悩んだと思ってるん!」
「今年どうする」
「米が足りるか」
「子供ら食わせられるか」
「ずっと考えてたんやで!」
父は小さくなる。
「いや……」
「最近の話が大きすぎてな」
「庄屋衆全部の借金とか」
「隣の庄屋とか」
「寺市とか」
「それに比べたら……」
「比べたらちゃう!」
母は怒った。
「家のことが一番大事や!」
八郎も少し申し訳なさそうに頭を下げる。
「すみません、母上」
「私も悪かったです」
「ただ」
「消しました」
「だから」
「もう前を向けます」
その言葉で母の表情が少し緩む。
「……ほんま変な子やわ」
「三歳の子供に借金返してもらう母親って何なん」
兄たちは笑いをこらえていた。
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そこで八郎が周りを見る。
「あと」
「私、忘れてました」
「何を?」
「六郎兄様、七郎兄様のことです」
二人が顔を上げる。
「やっと俺ら出てきた」
「ずっと寺子屋行ってるだけやったぞ」
八郎は頭を下げる。
「申し訳ありません」
「いや三歳児に謝られるの変なんやけど」
「でもですね」
八郎は続ける。
「お二人の年齢なら、外を回った方がいいと思います」
「……」
「三歳児に言われたくないわ!」
全員爆笑した。
「八郎が一番家におらんやろ!」
「確かに」
八郎も頷く。
「でも本気です」
空気が少し変わる。
「六郎兄様、七郎兄様」
「はい」
「これから、一郎兄様、二郎兄様について農業を見てください」
「芋」
「畑」
「人の動かし方」
「三郎兄様には料理と店」
「四郎兄様、五郎兄様には市や情報集め」
「全部少しずつ見てください」
兄二人は首を傾げる。
「なんで急に?」
八郎は少し黙った。
「たぶん」
「こんな自由に動ける時間」
「もう長くありません」
家族が静かになる。
「どういう意味や」
「今はここまでしか言えません」
「ただ」
「覚えてください」
「見ること」
「聞くこと」
「人を知ること」
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さらに八郎は言った。
「あと」
「一番大事です」
「身を守ってください」
「は?」
「危ないと思ったら逃げてください」
「逃げる練習でもいいです」
「護身でもいいです」
六郎が笑う。
「何を物騒な」
しかし八郎は笑わなかった。
「今、一番危ないのは兄様方です」
空気が止まる。
「なんでや」
「考えてください」
八郎は静かに言った。
「うちは急に銭を持ちました」
「商人さんが来ます」
「庄屋衆が集まります」
「借金を消しています」
「それを面白く思わない人もいます」
父の顔が険しくなる。
「続けろ」
「もし」
「私を動かしたい人がいたら」
「どうします?」
誰も答えない。
「家族を狙うかもしれません」
「身代金」
「脅し」
「絶対ないとは言えません」
母が八郎を抱き寄せる。
「そんなこと……」
「ない方がいいです」
「でも考えないとダメです」
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「だから」
「一郎兄様や二郎兄様みたいな大きい人の近くにいてください」
「一人にならないでください」
「危なかったら逃げてください」
「戦わなくていいです」
「生きて帰ってください」
兄たちは黙って頷いた。
父が小さく息を吐く。
「八郎」
「はい」
「ほんま物騒なこと考えるな」
「すみません」
だが父は首を振った。
「いや」
「違う」
「物騒じゃない可能性が、もう低くないんや」
全員が父を見る。
「この半年」
「何が起きるか分からん」
「八郎が言うてることは、大げさじゃない」
父は兄たちを見る。
「頭に入れておけ」
「ただし」
「外では絶対言うな」
「はい」
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静かな朝になった。
少し前まで。
この家の悩みは一万六千文の借金だった。
今日食べる飯。
今年の年貢。
それだけだった。
しかし今。
八郎の家は、三千石を動かし。
商人を動かし。
人の暮らしを変え始めている。
父は小さく笑った。
「ほんま」
「三歳児に何背負わせとるんやろな」
八郎は首を振った。
「違います」
「みんなでやってます」
その言葉に。
家族全員が黙って頷いた。




