1533年4月。神社の市も寺の市並みに集まる。2回目の市。八郎は現状維持で目の前の証文消しに集中。母親は持ち上げられすぎの八郎を心配する。
神社で初めて開かれた市も、寺の時と同じように大きな賑わいを見せた。
最初は皆、不安だった。
「寺ならまだ分かるけど、神社まで人が来るんか?」
そんな声もあった。
しかし蓋を開ければ、心配は不要だった。
普段、大きな市まで歩いて来られない老人。
小さな子供を抱えた母親。
農作業で時間が合わない者。
そういう者たちが次々と訪れた。
「こんな近くで買えるんか」
「甘い団子まであるんか」
「布もあるぞ」
「鍋も直せるんか」
商人衆も驚いていた。
「八郎様」
「はい」
「正直、ここまで売れると思ってませんでした」
「そうなんですか?」
「当たり前ですわ。市は人が集まる場所で開くものです」
「でもこれは逆です」
「人がいる場所へ市を持ってきている」
結果、売上は寺市とほぼ同じ。
六千五百文ほど。
寄進も入り、神社側も喜んだ。
「これなら社の修繕もできます」
その言葉に八郎は安心する。
「よかったです」
「みんな得する形じゃないと続きませんから」
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そして、二回目の大きな市の日。
朝から八郎の周りは相変わらずだった。
「八郎様」
「この前はありがとうございました」
「証文を買い取っていただいて」
「うちも助かりました」
「次はうちもお願いします」
来る人、来る人、頭を下げる。
母は横で複雑な顔をしていた。
三歳の息子に、大人たちが頭を下げる。
何度見ても慣れなかった。
一方の八郎本人はというと――。
「うーん……」
腕を組んでいた。
常連の客が笑う。
「なんや八郎様。儲かって困っとる顔やな」
「違います」
「何が違うんや」
「怖いんです」
「怖い?」
八郎はため息をつく。
「殿様です」
周囲が笑った。
「そこ心配するんか」
「しますよ」
八郎は真面目だった。
「だって考えてください」
「今、商人さんも」
「庄屋さんも」
「寺も神社も」
「みんなこっち向いてるんですよ?」
「それって殿様から見たら面白いですか?」
笑っていた者たちの表情が少し変わった。
三歳児の冗談ではなかった。
「私は殿様の家来の、そのまた下です」
「勝手に大きくなりすぎるのは危ないです」
商人の一人が感心する。
「そこまで考えますか」
「考えますよ」
「怒られるの嫌ですもん」
その最後の一言で笑いが戻った。
「結局そこか!」
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しかし、八郎の悩みはもう一つあった。
「あとですね」
「はいはい、今度は何ですか八郎様」
「数字がもう見切れません」
「……え?」
八郎は指を折る。
「飯屋」
「甘味処」
「天ぷら」
「市」
「寺市」
「神社市」
「証文交換」
「仕入れ」
「隣の庄屋衆」
「商人さん」
「無理です」
きっぱり言った。
「三歳ですから」
全員が吹き出した。
「今さら三歳を出すな!」
「いや本当に三歳ですよ!」
八郎はむっとする。
「夜は母上の布団で寝てますし」
「昼寝もしますし」
「字を書くのも疲れます」
「なのに何で三十万文近いの借金整理してるんですか」
誰も答えられなかった。
常連が腹を抱える。
「確かにな」
「おかしいわ」
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「だから」
八郎は真面目な顔に戻る。
「まず目の前です」
「証文を消す」
「借金を減らす」
「商売を安定させる」
「それだけです」
「新しいことは……」
そこで周りを見る。
「できれば増やさないでください」
周囲から笑いが起きた。
「一番増やしてる本人が言うな」
父も頷く。
「ほんまそれや」
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二回目の市も無事終わった。
甘味処は相変わらず人気。
炒め飯も天ぷらも売れる。
商人は挨拶に来る。
庄屋衆は感謝する。
村人は八郎を見ると頭を下げる。
「八郎様」
「ありがとうございます」
そんな声が毎日のように聞こえるようになった。
その夜。
母は八郎を布団に入れながら、小さく言った。
「八郎」
「はい、母上」
「あんた、大丈夫?」
「何がですか?」
母は少し困った顔をした。
「みんな持ち上げすぎや」
「八郎様、八郎様って」
「母ちゃん、ちょっと怖い」
八郎は黙った。
「今はみんな喜んでる」
「でも、人ってな」
「うまくいってる時ほど寄ってくる」
「何か失敗した時、急に離れることもある」
「母ちゃんはそれが怖い」
八郎は母の袖を握った。
「……僕も怖いです」
「え?」
「だから、できるだけ一人で決めないようにしてます」
「和尚様に相談して」
「父上にも聞いて」
「商人さんにも話して」
「みんなで決めた形にしてます」
母は少し驚いた。
「そこまで考えてるん?」
「はい」
「でも」
八郎は小さく笑った。
「最後は母上の布団で寝るので大丈夫です」
母は吹き出した。
「そこだけ三歳やな」
「三歳ですから」
そう言って八郎は布団にもぐった。
外では、八郎を中心に大きな流れが生まれていた。
だがその中心にいる本人はまだ、小さな母の子だった。




