1533年3月。3月2度目の市。「普通」のありがたさ。誰も今のところ大きな病気をしていないことに感謝。
三月二度目の市。
大きな騒ぎもなく、一日は終わった。
以前なら、それだけで「普通の日」だった。
だが今の八郎の家では、その普通こそが大きな成果だった。
夜。
帳面を閉じた八郎は、小さく息を吐いた。
「ありがたいですね」
父が首を傾げる。
「何がや?」
「皆さんが元気でいてくれることです」
「……?」
「何言うとるんや」
兄たちが笑う。
「いや、本当にですよ」
八郎は真面目な顔だった。
「今、当たり前みたいに市をやってますけど」
「おう」
「誰か一人でも熱を出したら変わります」
「……」
「母上が倒れたら、マグロも味付けも止まります」
母が苦笑する。
「縁起でもないこと言わんの」
「でも本当です」
「……」
「三郎兄様が風邪を引いたら、つみれ汁を見る人がいません」
「あー」
「四郎兄様、五郎兄様が動けなかったら隣の市との付き合いが止まります」
「まあな」
「一郎兄様、二郎兄様が動けなかったら農作業も水車も止まります」
父が腕を組む。
「……」
「だから」
八郎は笑った。
「予定通りに物事が動くって、すごいことなんです」
その場が静かになる。
そして三郎が吹き出した。
「ほんま、お前何歳や」
「三歳です」
「三歳児が、人が元気でいてくれるありがたさ語らんやろ」
みんな笑った。
しかし父だけは少し真剣だった。
「でもな」
「はい」
「八郎の言うことは分かる」
「……」
「最初は家族だけやった」
「はい」
「今は違う」
父は指折り数える。
「店」
「湯浴み」
「隣の市」
「農作業の手伝い」
「はい」
「もう八郎一人が頑張ったら回る話ちゃう」
「そうです」
「みんながおって初めて回る」
八郎は頷いた。
「だから、人を増やしたかったんです」
「……」
「銭は大事です」
「うん」
「でも銭だけ追いかけたら、多分誰か倒れます」
母が優しい顔をした。
「ほんまに……」
「?」
「よう見てるねえ」
その夜。
八郎はいつものように母の布団に潜り込んだ。
布団は新しい。
柔らかく、暖かい。
「母上」
「ん?」
「少し、道は見えてきました」
「何の?」
「借りです」
「……」
「父上たちの庄屋衆の分は、多分なんとかなります」
母は黙って聞く。
「今の流れなら」
「うん」
「湯浴み」
「市」
「漬物」
「うん」
「飯屋」
「うん」
「全部合わせたら、時間はかかりますけど返せると思います」
「そう」
「ただ」
「?」
「隣の庄屋衆までは、まだ分かりません」
母は少し笑った。
「八郎」
「はい?」
「あんた今どこで寝てる?」
「?」
「お母さんの布団」
「……」
「まだ、お母さんの布団で寝てる子が」
母は八郎の頭を撫でた。
「庄屋衆二つ分背負わんでええの」
「でも」
「でもじゃない」
「……」
「十分頑張ってる」
「……」
「そこから先は、お父さんたち大人の仕事」
その時、横で聞いていた父が苦笑した。
「いや」
「あなた?」
「正直な」
「うん」
「もう八郎がおらんと回らんぞ」
「父上」
「ほんまや」
父は天井を見る。
「考えてみい」
「?」
「最初はうちだけやった」
「はい」
「それが庄屋衆」
「はい」
「隣の庄屋衆」
「はい」
「市」
「職人」
「漁師」
「はい」
「もう何人関わっとるんや」
「……」
「全部解決したらな」
父は笑う。
「三千石分ぐらい、八郎についてくることになるぞ」
「そんな大げさな」
「大げさちゃう」
「いやいや」
「今でもや」
父は指を立てる。
「仕事くれる」
「……」
「銭を回してくれる」
「……」
「借りを返す道を作ってくれる」
「……」
「そんな相手、普通の民なら誰についていくと思う?」
八郎は黙る。
「でも領主様がいます」
「もちろんや」
「はい」
「だから怖いんや」
「?」
「領主様より民に近いところに八郎がおる」
「……」
「和尚様も言うてたやろ」
八郎は布団の中で小さく頷く。
「しかも」
父が苦笑する。
「これで終わりちゃうんやろ?」
「……」
「まだ考えとる顔や」
「少しだけです」
「ほらな」
母が笑う。
「何考えてるの?」
「まだ秘密です」
「あら」
「失敗するかもしれないので」
父が大笑いした。
「三歳児が失敗を考えて動くな」
「大事です」
「そこがおかしいんや」
しばらく笑い声が続いた。
だが父は最後に静かに言った。
「八郎」
「はい」
「大きくなりすぎたら気をつけろ」
「……」
「人が集まるということは」
「はい」
「敵もできる」
「分かっています」
「ならええ」
母は八郎を抱き寄せる。
「でも今日は寝なさい」
「はい」
「まだ三歳なんだから」
「……はい」
銭を稼ぐ。
仕事を作る。
人を救う。
その小さな積み重ねは――
八郎自身も気づかないほど、大きな流れになり始めていた。




