1537年。10月4週目。八郎様が倒れたら全部止まります。
十月四週目。
有馬。
「いやあ」
八郎は。
湯から上がると。
大きく。
息を吐いた。
「ええ湯でしたねえ」
「随分」
「長う入っておられましたね」
「気持ちよかったですから」
火照った身体のまま。
八郎は。
畳の上へ。
ごろんと横になった。
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「八郎様」
「はい?」
「こちらへ」
夏姫が。
自分の膝を。
軽く叩く。
「ええんです?」
「どうぞ」
「ほな」
八郎は。
遠慮なく。
頭を乗せた。
「極楽ですねえ」
別の姫が。
団扇で。
ゆっくり。
風を送ってくれる。
「これ」
「もう動きたくなくなりますね」
「たまには」
「それでよろしいのです」
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「ほんま」
八郎は。
天井を見ながら言った。
「平和ですねえ」
「前線は」
「騒がしいですが」
「それはそうなんですけど」
少なくとも。
今。
この有馬では。
湯が湧き。
飯があり。
人が笑っている。
「こういうところ」
「増えたらええですね」
「八郎様」
「はい?」
夏姫が。
少し。
真面目な声になる。
「いよいよ」
「京が近づいております」
「そうですね」
「そこで」
「一番気を付けねばならぬこと」
「分かっておられますか?」
◇
八郎は。
少し考えた。
「そら」
「いろんな家との関係でしょう」
細川。
三好。
足利将軍家。
六角。
比叡山。
朝倉。
「誰が」
「どっちにつくとか」
「そういう――」
「違います」
「え?」
「八郎様の」
「御身体です」
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「……僕?」
「はい」
「いや」
「僕より」
「軍の方が」
「八郎様」
「はい」
夏姫は。
八郎の額を。
軽く。
指で押した。
「八郎様が倒れたら」
「この傘」
「どうなります?」
「兄様方おるでしょう」
「おります」
「ほな」
「大丈夫ちゃいます?」
「大丈夫ではございませぬ」
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今の。
八郎家。
八郎商会。
九州。
四国。
中国地方。
播磨。
摂津。
和泉。
そこまで。
広がった。
巨大な傘。
「確かに」
「お兄様方も」
「優秀でございます」
「でしょう?」
「ですが」
商会を。
残すことと。
この巨大な領地を。
一つにまとめ続けることは。
別。
「八郎様が」
「旗を振っておられるから」
「皆」
「同じ方向へ向いております」
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「でも」
「兄様ら」
「仲ええですよ?」
「内々は」
「そうでしょう」
「なら」
「大丈夫では?」
夏姫が。
小さく笑った。
「八郎様」
「家の中だけで」
「世の中は」
「決まりませぬ」
婚姻した家。
国人。
商人。
寺社。
旧領主。
周囲には。
様々な者がいる。
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「当主が替われば」
「この機会に」
「自分の取り分を増やそう」
「そう考える者も」
「出てまいります」
「そんなもんです?」
「そんなものです」
大友家。
尼子家。
大内家。
それぞれ。
事情がある。
「うちの家も」
「絶対に何も考えぬ」
「とは申しませぬよ」
「正直ですね」
「そこは」
「正直に申しておきます」
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「今が」
「少し異常なのです」
「異常?」
「はい」
土地を取ったのに。
取れるだけ取らない。
借金を返す。
市場を作る。
道を直す。
飯を豊かにする。
「普通なら」
「もっと」
「取れるものを」
「取ります」
「でも」
八郎が言う。
「取らへんから」
「みんな入ってきてくれてるんでしょう?」
「その通りです」
「ほら」
「ですが」
夏姫が。
八郎の髪を。
軽く撫でる。
「それは」
「表裏一体です」
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八郎がいるから。
その方針が続く。
八郎がいるから。
「全部奪われるわけではない」
と。
周囲も信じる。
「八郎様がおられなくなれば」
「次も同じとは」
「誰にも分かりませぬ」
「……なるほど」
八郎は。
少し。
黙った。
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「姫路を」
「これからも」
「拠点にされるのか」
「それとも」
「東へ移されるのか」
「それも」
「いずれ考えねばなりませぬ」
「京都近くなりましたからねえ」
「ですが」
「その前に」
「無理をなさらぬことです」
寝る。
食べる。
身体を冷やさない。
「風邪を」
「引かぬことです」
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「そこ?」
「そこです」
「もっと」
「天下国家の話かと」
「天下国家も」
「七歳児が風邪を引けば」
「止まります」
三郎が。
横から笑った。
「それはほんまやな」
「兄さんまで」
「お前」
「働きすぎやねん」
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八郎は。
夏姫の膝の上で。
少し。
身体を丸めた。
「でも」
「まだやること」
「いっぱいありますよ」
「明日やればよろしいのです」
「でも」
「今日しかできんことも」
「今日」
「休むことも」
「仕事でございます」
「……」
「八郎様?」
「それ」
「便利な言葉ですね」
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夏姫が。
笑う。
「では」
「今日は」
「早う休みましょう」
「そうします?」
「はい」
「寒くならぬよう」
「お布団も」
「温めておきます」
八郎が。
少し笑った。
「ほな」
「一緒に寝ます?」
「八郎様が」
「ちゃんと寝られるなら」
「そばにおりますよ」
「ありがたいですねえ」
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湯上がり。
温かい布団。
静かな夜。
遠くでは。
兵が動き。
京では。
政治が動いている。
それでも。
今夜ぐらいは。
何も考えず。
眠ってもいい。
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「八郎様」
「はい?」
「お身体を」
「一番大事になさってください」
「分かりました」
「ほんまです?」
「多分」
「多分では困ります」
「努力します」
「それなら」
「よろしいです」
十月四週目。
天下の行方より。
まず。
七歳の当主を。
風邪から守る。
今の八郎家にとって。
案外。
それが。
一番大事な仕事なのかもしれなかった。




