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1537年。九月三週目 前線なのに穏やかでございますな ~石山本願寺~

九月三週目。

 石山本願寺。

 夕刻。

 日の傾き始めた寺内町を。

 数人の僧が。

 少し高い場所から眺めていた。

 八郎家の兵。

 本願寺の門徒。

 商人。

 大工。

 荷を運ぶ人足。

 町へ飯を売りに来た者。

 様々な人間が。

 行き交っている。

「……不思議なものですな」

「何がでございます?」

「ここは今や」

 一人の僧が笑った。

「細川、三好との最前線なのでしょう?」

「まあ」

「そうなりますな」

・・・・・・・・・・・・・・

 本願寺が。

 八郎家の傘へ入った。

 その直後から。

 細川、三好との関係は。

 明らかに悪くなった。

 周辺では。

 小競り合いも起きている。

 兵も集まっている。

 本来なら。

 もっと。

 張り詰めた空気になっていても。

 おかしくない。

「それが」

 僧が町を指した。

「どうにも、戦場らしくない」

「確かに」

 笑い声が聞こえる。

 飯の匂いがする。

 大工が。

 仕事終わりに酒を飲んでいる。

 子供まで走っている。

「まさか」

「こんな形で勢力を広げる方だとは思いませなんだ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「まず飯が変わりましたな」

 最近だけでも。

 うどん。

 蕎麦。

 衣揚げ。

 芋を薄く揚げたもの。

 蜂蜜を絡めた芋。

 鶏の衣揚げ。

 卵と酢と胡麻油を練った。

 妙な白いたれ。

「八郎様は」

「ようもまあ」

「飯のことばかり思いつかれますな」

「御本人に言えば」

 また。

「八郎商会は握り飯から始まったんです」

 などと言うのだろう。

「しかし」

 一人が。

 少し真面目になる。

「飯が旨いというのは、思っていた以上に大きいですな」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 施しそのものなら。

 本願寺でも。

 以前からやっている。

 困った門徒へ。

 米を出す。

 粥を炊く。

 寺で面倒を見る。

「ですが八郎様は」

「単に腹を満たすだけではない」

「今日は何が出るのか」

 それを。

 楽しみにする者までいる。

「施しの飯を」

「楽しみにするというのも妙な話ですが」

「満足というものが、一段上がっておりますな」

 食える。

 だけではない。

 旨い。

 選べる。

 珍しい。

 また食いたい。

「そこまで考えておられるのか」

「本人は」

「美味しい方がええでしょう、としか言わぬ気もしますが」

 僧たちは笑った。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 だが。

 変わったのは。

 飯だけではなかった。

「借財の扱いも大きいでしょう」

「ですな」

 農民の借金。

 職人の借金。

 侍の武具代。

 城や町に残された未払い。

 八郎家は。

 領地へ入るたび。

 帳面を集める。

「払えるものは払う」

「整理できるものは整理する」

「無理なら働いて返せる形へ変える」

 そして。

 生活に必要なものまで。

 一度に銭を持っていなくとも。

 手に入れられるようにする。

・・・・・・・・・・・・・・・・

「布団まで扱っておるそうですな」

「衣も」

「鍋も」

「道具も」

 ただ。

 全部ただで配るわけではない。

 帳面へ付ける。

 働いた銭。

 品物。

 収穫物。

 場合によっては。

 現物でも返せる。

「何と申しますか」

 一人の僧が腕を組んだ。

「先が見えるのですな」

「先?」

「はい」

 借金がある。

 それだけなら。

 ただ苦しい。

 いつ終わるか分からない。

 だが。

「これだけ働けば」

「これだけ返せる」

「来年には終わる」

 そこまで。

 見えるようにする。

「人間」

「終わりの見えぬ苦しみが一番堪えるのかもしれませぬな」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 大工たちも。

 よく働いていた。

 本願寺の大工と。

 八郎領から来た。

 若い職人。

 混じって。

 堂。

 倉。

 港。

 道。

 あちこちで仕事をしている。

「昨日も遅くまでやっておりましたぞ」

「銭が出るからでしょう」

「間違いなく出る」

 仕事をする。

 約束の日。

 決められた銭が出る。

「当たり前のようで」

「このご時世では、それが当たり前でない」

「そこですな」

 働いても。

 払われない。

 戦が始まり。

 徴発される。

 約束が変わる。

 そんなことが。

 珍しくない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「八郎家では」

「帳面が残る」

「約束した以上は払われる」

「だから皆、安心して働けるのでしょうな」

 しかも。

 働いている者たちは。

 少しずつ。

 妙な誇りまで。

 持ち始めていた。

「丸八のところは仕事が早い」

「飯が旨い」

「給金が遅れぬ」

「道も直す」

 そう。

 自分たちで言う。

「帰属意識」

 一人の僧が呟く。

「そんなものまで出来始めておりますな」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 誰かに。

 八郎家を褒めろと。

 命じられているわけではない。

 自分たちの暮らすところを。

「ここは悪くない」

 そう思っている。

「これは」

 年長の僧が。

 静かに言った。

「恐ろしいことでございますな」

「恐ろしい?」

「はい」

 城を取られるより。

 人の心が。

 先に取られていく。

「細川や三好が嫌がるのも分かります」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「従来の政というものは」

 取れるところから取る。

 米があれば取る。

 銭があれば取る。

 兵にできるなら兵にする。

「八郎様は」

「そこが逆なのやもしれませぬ」

「逆?」

「まず不満の芽を潰す」

 借金を減らす。

 飯を出す。

 仕事を作る。

 寝床を用意する。

「それから」

「その土地から銭を稼ぐ仕組みを作る」

 交易。

 市。

 宿。

 旅。

 飯屋。

「その稼ぎで」

「また借金を消す」

「……」

「そら強くなりますな」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 本願寺の僧たちも。

 考えさせられていた。

「我らも」

「門徒には色々してきたつもりでございました」

 困れば助ける。

 祈る。

 施す。

 寺内で守る。

「ですが」

「反省せねばならぬところもございますな」

「ございますな」

 助けること。

 生かすこと。

 それだけではなく。

「明日を楽しみにさせる」

 そこまで。

 考えたことがあったか。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「七歳児に」

 一人が苦笑する。

「政を考えさせられるとは」

「ほんまですな」

「妙な世の中になったものです」

 その時。

 遠くで。

 八郎家の兵たちが。

 飯を受け取っているのが見えた。

 兵と。

 大工と。

 僧。

 同じ鍋から。

 汁をよそってもらっている。

「しかも」

 年長の僧が言った。

「ここは前線ですぞ」

「そうでした」

「忘れそうになりますな」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 もちろん。

 戦がなくなったわけではない。

 細川。

 三好。

 北摂。

 和泉。

 周辺では。

 まだ。

 いつ何が起こってもおかしくない。

「この先ずっと」

「このままとはいかぬでしょう」

「八郎家が」

「必ず勝つとも限らぬ」

 それは。

 皆分かっていた。

 七歳の八郎とて。

 万能ではない。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

「ですが」

 一人が。

 少し笑った。

「少なくとも今は」

「はい」

「我らの領分で」

 血を流す者が。

 急激に増えずに済んでいる。

「それだけでも」

「傘へ入った甲斐はございましたな」

 細川から。

 前線に立てと言われるより。

 八郎に守られながら。

 港を整え。

 町を直し。

 飯を食う。

「随分違いますな」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 日が沈む。

 石山本願寺の周りに。

 灯りが増えていく。

 飯屋。

 宿。

 商人の店。

 大工の小屋。

 八郎商会。

 そして。

 その外側では。

 八郎家の兵が。

 静かに周囲を警戒していた。

「前線が」

 一人の僧が呟いた。

「栄えていくというのも」

「妙なものですな」

「けれど」

 年長の僧は。

 少し笑った。

「戦場が栄えるのではなく」

「栄えた場所を」

「皆で守っておると思えば」

「悪くはありますまい」

 九月三週目。

 石山本願寺は。

 細川・三好との最前線にありながら。

 以前より。

 人が増え。

 仕事が増え。

 飯が旨くなり。

 少しずつ。

 穏やかな場所になっていた。

 七歳の八郎が。

 何年先まで考えているのか。

 それは。

 誰にも分からない。

 もしかすると。

 本人にも。

 分かっていないのかもしれない。

 ただ。

 飯を旨くする。

 借金を減らす。

 働けば銭が出る。

 眠る場所を作る。

 そんな。

 一つ一つの小さなことが。

 気づけば。

 城を落とすよりも強く。

 人の心を。

 八郎の方へ。

 引き寄せ始めていた。

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