第38話 A-だからって、調子に乗るな
第38話 A-だからって、調子に乗るな
翌朝。
神崎蓮司は、事務所のドアの前で、少しだけ迷った。
昨日の夜、自分は余計なことを考えた。
A-だからかもしれない。
もちろん、それは内緒だった。
そう思った。
思っただけのはずだった。
しかし、この事務所には三島がいる。
セイムがいる。
ヤミちゃんがいる。
そして最近は、自分のつぶやきや雑談が、なぜか翌朝にはホワイトボードに昇格している。
神崎は、恐る恐るドアを開けた。
ホワイトボードには、こう書かれていた。
『A-だからって、調子に乗るな』
神崎は、静かにドアを閉めた。
そして、もう一度開けた。
文字は消えていなかった。
三島が机の横で、真顔で資料を揃えている。
神崎はゆっくり言った。
「三島」
「はい」
「これは誰だ」
三島は、少しだけ視線をそらした。
「私です」
「お前か」
「はい」
「ヤミちゃんではなく?」
ヤミちゃんが表示された。
『私は表現案として、“A-は暫定評価です”を推奨しました』
セイムも表示された。
『私は、“評価上昇による行動変容に注意”を推奨しました』
神崎は三島を見た。
「で、お前がこれにしたのか」
三島は頷いた。
「一番効くと思いまして」
神崎は額に手を当てた。
「秘書が一番辛辣だな」
「先生、昨日少し嬉しそうでしたので」
「嬉しくない」
「B+よりはいい、と言っていました」
「記録するな」
ヤミちゃんが表示された。
『内輪記録です』
「内輪でもやめろ」
セイムが冷静に表示した。
『本日の論点に適合します。
AI評価や非公式評価が上がった場合、本人は無意識にその評価を維持しようと行動を変える可能性があります』
神崎は黙った。
確かに。
B+をいじられている間は、自分でも笑えた。
だが、A-と言われた瞬間、少し嬉しかった。
少しだけ、自分が前進したような気がした。
そして同時に、A-らしく振る舞おうとする危険もある。
高評価も人を縛る。
自分たちで言った言葉だった。
神崎はホワイトボードを見た。
『A-だからって、調子に乗るな』
雑だ。
だが、効く。
「今日は評価上昇の罠か」
三島が頷いた。
「はい」
セイムが表示した。
『関連論点。
一、評価が上がると維持行動が生まれる。
二、評価が下がると回復行動が生まれる。
三、どちらも本人の自由な判断を歪める可能性がある。
四、AI評価を改善指標として使う場合、過剰最適化に注意が必要。』
ヤミちゃんが表示した。
『見出し案。
“評価が上がっても、人は縛られる”
拡散可能性:中高』
神崎は頷いた。
「これは前に出した“高評価も人を縛る”の続きだな」
「はい」
三島がホワイトボードに書き足した。
『評価を上げるための政治になるな』
神崎はそれを見て、少しだけ顔をしかめた。
「それ、かなり大事だな」
午前十時。
雨宮紗季とのオンライン協議。
画面の向こうの雨宮は、開口一番こう言った。
「A-だからって、調子に乗るな」
神崎は目を閉じた。
「もう共有されてるんですね」
「三島秘書から」
神崎は三島を見た。
三島は無表情で小さく頭を下げた。
「有用かと思いまして」
「人的APIどころか、人的配信網だな」
雨宮は淡々と言った。
「今日の論点としては有用です」
「A-昇格の話は、もう終わったはずでは」
「終わっていません。評価が上がった時の行動変容を扱います」
「私を教材に?」
「はい」
「本人の同意は?」
「政治的には共有財産です」
「またそれか」
雨宮は資料を共有した。
『AI評価改善と過剰最適化』
一、評価を上げるための行動。
二、評価を維持するための萎縮。
三、評価項目への迎合。
四、評価されやすい成果への偏り。
五、評価されにくい重要行動の軽視。
六、AIスコア改善ビジネス。
七、政治家本人の自己認識の変化。
神崎は画面を見ながら言った。
「これは政治家だけじゃなく、企業の人事評価や学校にも当てはまりそうですね」
雨宮は頷いた。
「はい。ただ、私たちは政治家評価の文脈で扱います」
KIRIKOが表示した。
『政治分野での例。
一、AIが高評価する無難な発言に寄る。
二、炎上リスクを避けるため、重要だが不人気な論点を避ける。
三、地元活動や政策研究より、スコア化されるSNS発信を優先する。
四、党方針との整合性スコアを上げるため、異論を控える。
五、説明責任より、評価改善に見える演出を優先する。』
セイムが補足した。
『AI評価が導入された場合、“評価改善に見える行動”と“実際の改善”を区別する必要があります』
神崎はホワイトボードに書いた。
『評価改善に見える行動』
『実際の改善』
三島が横に矢印を書いた。
『見た目のA』
『中身のB+』
神崎はそれを見て言った。
「おい」
三島は真顔で言った。
「分かりやすいかと」
雨宮が画面越しに少しだけ笑った。
「分かりやすいです」
神崎はため息をついた。
「今日の私は完全に教材だな」
ヤミちゃんが表示した。
『教材適性:高』
「評価するな」
雨宮は言った。
「共同見解を出しましょう。評価を上げること自体を否定しない。ただし、評価への過剰適合を警告する」
神崎は頷いた。
「タイトルは?」
ヤミちゃんがすぐ表示した。
『案。
“AI評価を上げるための政治にしない”』
神崎は少し黙った。
「今日は普通に強いな」
雨宮も頷いた。
「採用できます」
神崎はホワイトボードに書いた。
『AI評価を上げるための政治にしない』
そこへ、セイムが補足を出した。
『副題案。
“評価改善と過剰最適化の区別”』
神崎は顔をしかめた。
「役所っぽい」
雨宮は言った。
「本文向けですね」
「副題は?」
三島が言った。
「“A-になっても、やることは変わらない”」
神崎は三島を見た。
「お前、今日攻めるな」
三島は少しだけ口元を動かした。
「有用かと思いまして」
雨宮が言った。
「一般化しましょう」
KIRIKOが修正版を出した。
『評価が上がっても、やるべきことは変わらない』
神崎は頷いた。
「それならいい」
昼前。
神崎と雨宮は、共同見解を公開した。
表題。
『AI評価を上げるための政治にしない』
副題。
『評価が上がっても、やるべきことは変わらない』
本文。
『AIによる政治家・候補者評価が広がる場合、低評価の固定化だけでなく、高評価を維持しようとする行動変容にも注意が必要です。
評価が下がれば、人は評価を回復しようとします。評価が上がれば、人はその評価を維持しようとします。どちらも自然な反応です。しかし、政治家や候補者がAIスコアを意識しすぎれば、評価を上げるための政治、評価を下げないための政治に近づく危険があります。
たとえば、炎上リスクを避けるために重要な論点を避ける。AIが高く評価する無難な言葉ばかり選ぶ。党方針整合性スコアを意識して異論を控える。SNS影響力を上げるために、政策研究より見栄えのよい発信を優先する。
これは、政治家本人にとっても、有権者にとっても望ましいことではありません。
重要なのは、評価改善に見える行動と、実際の改善を区別することです。説明責任を果たすこと、誤りを訂正すること、政策理解を深めること、有権者との対話を続けることは、実際の改善です。一方で、AIスコアに合わせて人格や発言を整えるだけなら、それは改善ではなく、評価システムへの迎合です。
AI評価は参考情報であって、政治家の目的ではありません。評価が上がっても、やるべきことは変わりません。』
最後に、神崎が一文を足した。
『A-になったからといって、調子に乗ってはいけません。』
雨宮は最初、無言だった。
それから言った。
「入れるのですか」
神崎は少し考えた。
「入れませんか」
雨宮は数秒黙り、そして言った。
「注釈としてなら」
「注釈?」
最終版では、本文の最後に小さくこう入った。
『なお、非公式評価が上がったとしても、本人が調子に乗らないことも重要です。』
神崎は言った。
「これ、私のことですね」
雨宮は淡々と返した。
「一般論です」
三島が小さく咳をした。
公開後、反応は予想以上に大きかった。
『評価が上がってもやるべきことは変わらない』
『AI評価を上げるための政治、怖い』
『見た目のAと中身のB+』
『A-になっても調子に乗るな、完全に神崎先生』
『雨宮先生が裏で言わせてそう』
『三島秘書が書いてそう』
『評価システムへの迎合、会社でも学校でもある』
三島は最後から二つ目を見て、静かに画面を伏せた。
「先生」
「何だ」
「私が書いてそう、と言われています」
「実際、書いた」
「そうですが」
「ようこそ」
「標語化される側へ、ですか」
「そう」
三島は少しだけ疲れた顔をした。
「落ち着かないですね」
「だろ?」
ヤミちゃんが表示した。
『三島秘書の社会的認知が上昇しています』
三島が即座に言った。
「上げないでください」
セイムが表示した。
『秘書の可視化も政治AI時代の論点です』
神崎は少し真顔になった。
「それは確かに」
三島が困ったように言った。
「先生、私の話は広げないでください」
「分かった。今日は広げない」
『今日は』
ヤミちゃんが表示した。
「揚げ足を取るな」
午後。
党本部の小会合では、AI評価への過剰最適化が議題になった。
選対関係者が言った。
「候補者が評価基準に合わせて行動を改善することは、悪いことではないのでは」
神崎は頷いた。
「悪いことではありません。問題は、何に合わせるかです」
「たとえば?」
「会計透明性を上げる。過去発言を訂正する。地元活動を増やす。これは評価基準に合わせたとしても、望ましい改善です」
「では、悪い例は?」
「異論を言わない。炎上しない無難な発言しかしない。AIに好かれる人格を演じる。政策よりスコア対策を優先する。これは危険です」
長老議員が言った。
「点を取るための勉強と、物を分かるための勉強は違う」
会議室が静かになった。
神崎はすぐにメモした。
『点を取るための勉強と、物を分かるための勉強は違う』
長老議員が神崎を見た。
「またメモしたな」
「すみません。強すぎます」
「使ってもよいが、政治家にも言えるぞ」
「はい」
長老議員は続けた。
「点を取るための政治と、世の中を良くするための政治は違う。そこを間違えるな」
神崎は、ゆっくり頷いた。
「はい」
その言葉は、今日のどのAI出力よりも重かった。
夕方。
事務所に戻った神崎は、ホワイトボードに大きく書いた。
『点を取るための政治にするな』
三島が言った。
「長老議員ですね」
「はい」
「強いです」
セイムが表示した。
『本日の核心です』
ヤミちゃんが表示した。
『標語化可能性:非常に高』
神崎は少し黙った。
「これは出した方がいいな」
三島が頷いた。
「はい」
神崎は、雨宮にメッセージを送った。
『長老議員から、“点を取るための政治と、世の中を良くするための政治は違う”が出ました』
すぐ返事が来た。
『使いましょう』
神崎。
『早いですね』
雨宮。
『評価不能の人は、たまに核心だけを言います』
神崎は笑った。
夜。
短い追加コメントを、神崎と雨宮の連名で出した。
『AI評価が広がる時代に必要なのは、点を取るための政治ではありません。点数を上げるために発言を整え、炎上を避け、異論を控え、評価されやすい行動だけを選ぶなら、政治は評価システムのための演技になります。
点数は参考にできます。しかし、点数を目的にしてはいけません。
点を取るための政治と、世の中を良くするための政治は違います。』
このコメントは、今日の共同見解よりも広がった。
『点を取るための政治と、世の中を良くするための政治は違う』
『これは政治以外にも刺さる』
『評価システムのための演技、怖い』
『A-で調子に乗ったB+が言うと味わい深い』
『長老議員、また名言では?』
神崎は最後を見て言った。
「長老議員の名前は出してないのに、もうバレてる感じがあるな」
三島が頷いた。
「文体が違いますから」
「俺の文体が軽いみたいに言うな」
「親しみやすいです」
「便利な言葉だな、それ」
二十二時前。
神崎は帰り支度を始めた。
セイムが表示した。
『本日のまとめ。
一、評価上昇による行動変容を論点化。
二、AI評価を上げるための政治への警告を出した。
三、評価改善に見える行動と実際の改善を区別した。
四、長老議員発言を追加コメントとして広げた。
五、神崎議員はA-に少し反応しすぎました。』
神崎は最後を見て言った。
「五番いらない」
『重要です』
ヤミちゃんが表示した。
『内輪向け評価として有用です』
「いらない」
三島が言った。
「でも先生、今日は少し調子に乗っていました」
神崎は観念した。
「はい」
「それを自分で止められたので、実際の改善です」
神崎は少し驚いた。
「三島、うまいこと言うな」
「先生たちの話を聞いていましたので」
雨宮からメッセージが来た。
『今日の追加コメント、非常に広がっています。長老議員の言葉は強いですね』
神崎は返信した。
『はい。評価不能です』
雨宮。
『A-で調子に乗らないでください』
神崎は笑った。
『肝に銘じます』
外に出ると、夜風が冷たい。
A-。
B+。
点数。
評価。
ランキング。
人は数字に反応する。
自分も反応した。
少し嬉しくなった。
少し調子に乗った。
だから分かる。
評価は、人を動かす。
上げるために動く。
維持するために動く。
下げないために黙る。
それが政治に入ってくる。
怖い。
神崎は歩きながら、長老議員の言葉を思い出した。
点を取るための政治と、世の中を良くするための政治は違う。
当たり前のことだ。
だが、AI評価社会では、その当たり前を何度も言わなければならない。
神崎は小さくつぶやいた。
「点を取りに行くな。仕事をしろ」
言ってから、少し笑った。
これはさすがに雑すぎる。
でも、明日のホワイトボードに書かれていそうで、少し怖かった。




