ジン・フェリスターク
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。早く、早くこっちきて! 遊ぼう?一日は短いよ!」
声が響く。暖かな春の木漏れ日と共に春望を遂げた、記憶の根底を掘り下げる声が。なだらかな段丘を駆け抜ける明るい少女を想起させる幸福を具現化した声が。
「もう、あんまり走りとこけるよ」
「こらこら、落ち着いて遊ぶんだぞ?」
声が響く。母の胸の中のような、豊かで広々とした大地を感じさせる声が。甘くて懐かしい、あの匂いを想起させる声が。
声が響く。いつも見守っている、父の頼もしい背の後ろにいるような、そんな幸福感を感じさせる声が。愛を持って怒る、その瞬間の如し声が。
だが、それは全て夢だ。虚構。起きてしまえば、文字通り全て虚構で夢の泡。さらに言うなら、今最も求める「夢」という意味でもある。追い求めても、手に入らないもの。
なぜそう断言できるのか。それは、この世界にその声を発する者たちはいないからである。妹、母、父。今すぐには会うことのできない、残された人々。逆に、残してきた人々、とも言えるだろう。
どちらにせよ、この場所で決して感じることのない多幸感。だから、こんな幸福な感覚があるのならば、それは確実に夢なのだ。そうでなくとも虚しいが、そうならば虚しい限り。心に穴を開ける、そんな優しく残酷な夢。
「待てよ、兄ちゃんがすぐに行ってやるから」
だから、追いかけるのだ。たとえ虚しいロールプレイだったとしても、兄を演じている間だけは、少なくとも今だけは、幸福であると、そう信じることができるのだから。
ーーーーー
「お兄ちゃん、お兄ちゃん。早く、早く……」
大きく息を吸って、吐く。その一連の流れの中で、情景は完全に変わってしまっていた。朗らかさを孕んだ春の陽気は、害意に満ちた炎の熱気、家族団欄は、阿鼻叫喚へと。
殺意。それも、明確な理由があるものではなく、通り魔的に向けられる代物。遊び感覚でアリを潰すのに近いだろう。それが、迫ってきている。
「早く……逃げて。逃げて!遠くまで!」
響く、声が。悲壮感に満ちた、別れと失いの苦しみを存分に含んだ、そんな声が。
「行きなさい」「生きろ!」
響く、声が。ひたむきに幸せを願い続けた末路と呼べる、慈愛と意志の結晶。そんな声が。
燃え盛る、炎。それは、次々と移り燃え上がり、見渡す限りを焼土へと変えていく。あちらこちらの家に燃え移り、ついには、妹の倒れている瓦礫にまで火が回る。父母も数瞬のうちに火に飲まれる。
その間、無意味に手を伸ばすことしか出来なかった。どうせ何かをしても夢の結果は変わらないという思いからであったし、何よりも、自分が何かをしようとしたという免罪符が欲しいだけだったからかもしれない。
とにかく、燃え盛る炎の前では、一人の人間は無力である。そう、それこそ魔法でもない限りは。だから、冷やす力を求めた、落ち着ける心を求めた。
この炎を全て、全て凍て付かせられたなら……きっと助けられる、大事な人たちを。
できるのは、そんな淡い期待を抱きつつ、それでも無情な現実に対して怒ることと、絶望するだけ。だからせめて手を伸ばすのだ。
凍れ、凍れ、凍れ。全てを守る硬くて厚い氷となれ。それも叶わず、ただ虚しく氷は消えていく。何も成せず、何者にもなれず。
「お兄ちゃん!助けて!」
一瞬の迷い。手を伸ばし続けるか、否か。意地悪くその一瞬をつくように火は勢力を増し、目の前で、妹は炎へと飲み込まれていった。
ーーーー
「……っつ!」
ジンは、ベッドから飛び起きるようにして起床した。叫び声こそ上げていなかったのか喉に違和感はないものの、体は冷や汗、頭はとんでもない痛さに見舞われている。
だが、ジンにとってこのような経験は初めてのことではなかった。幼い頃のショックな記憶の過去想起は彼に強いトラウマを与え、それは、定期的に夢にまで出るほどであった。
特に、先の「定例会議」を終えてから、その傾向はどんどんと強まっていた。眠れるものの、安全に寝つける日々などもう少しもない。毎日、自責にとらわれる朝を迎えるには、ジンであろうと喜ばしいことではない。
「嫌な、夢を見ましたね……」
ジンにとってのトラウマにして幼い頃の苦い記憶。それが、一身に彼に襲い掛かる。そのことは、恐怖以外の何物でもない。だが、だからこそ、彼はいつも夢の中で最大に抵抗を試みるのだ。それが、幸せへの架け橋だと、そう思っているから。
「何とかしなければ……」
私室にいるときだけ、ジンは情報屋の経営者からジン・フェリスタークに戻る。だから、この発言は損得勘定を抜きにした、ジンの心からの叫びであった。
「やはり、克服は、急務でしょうか?」
その口調は、誰かというよりは自分へ問いかけるものであった。答えが分かり切っているときに使う自問である。必要に決まっているではないか。情報屋に、苦手などあってはならない。すべての情報に関わる者としての、最大で必須の任務。
だが、分かってはいても、ジンの心はそれには応えない。思考と心がどれだけ努力しても乖離する。特段珍しくもない現象が、ただ彼の周りで起こっていた。
その人物が想起される度に、怒りは広がり、熱は取れない。普段は穏やかで怒りを見せない顔に苦々しい憤怒が表出される。ー忌々しさと同義の苛立ちを孕んだ声が、つい、といった様子で彼の口から漏れた。
「私の試練、私の存在意義。そんなものはどうでもいい。今の私は、少なくとも復讐のためにある」
怒りとは、往々にして対象が含まれる範囲全体を憎んでしまうことになる。主語が大きくなる、と言えばいいのだろうか。有り余る怒りは、どんどんと大きい方へ逃げていき、身に余る諸刃の剣の力を、なるべく発散しようとするものなのだ。
だが、怒りは諸刃の剣であるとともに、強いエネルギーを利用した己への鼓舞にも繋げることができる。弱気な自分を洗い流すための、体に悪い特効薬。
「終われない、終わらない。『情報屋』のゴールと、私としてのゴール。きっと、延々と続く長い旅路。だとしても、私は死んでも勇者を許さない。私がされた通り、奴を一族と共に消してしまおう。そして、不幸の根源たるすべての勇者をも。私の到達点は、復習だ」
自らに言い聞かせるようなジンの声。己自身の冷たさで消えかけた薪に火を灯すような行為。彼がいてつかせるために欲した氷を突き破るかのように、感情という炎が人の心の中で燃え盛り、揺れ動いていた。




