第六話:エル・ハピル
日が沈みかけており、空がオレンジ色になっている。
まわりの商業施設の看板に明かりが灯り始めており、夜の状態になっていくことがわかる。
にもかかわらず、人通りは昼と全く変わらない。夕飯時だからなのかもしれないが、毎度毎度常時人であふれかえるこの繫華街には驚かされる。
もと来た道をひたすら戻っていく。
徐々に人通りが減っていき、道がはっきり見えるようになっていく。
しばらく歩くと、自分が住んでいるマンションに戻った。家に帰ろうと思ったが、冷蔵庫には食料がない。
仕方なく家を後にし、ゲーセンと反対側にあるスーパーに向かう。
反対側は先ほどと違って閑散としている。だから息が詰まることもない。たまに入れ墨を掘り、煙草を吸っている柄の悪い輩もいるが、無視して通り過ぎれば絡まれることはない。
しばらく歩き、スーパーにたどり着いた。群青色の空に赤のネオンで店名がはっきり見える。
ここへ引っ越してきたときからずっとお世話になっているスーパー。値段は実家の近くのスーパーより高いが、コンビニやショッピングモールで買うより断然安い。
スーパーに入った。ここで回収すべきものは二つ。「今日の分の食料」と「貯蔵用の食料」だ。
まずは冷凍食品コーナーに向かう。手軽に作れるものから、お弁当の一品向けのものまでたくさんある。自分がここで買うのは前者。特に餃子は簡単に作れて且つ腹をかなり満たせる。近くに置いてあった買い物かごを手に取り、冷凍餃子を3袋入れる。次に、保存食品コーナー。ここのおススメは納豆。3個1セットのものが安くて量も多い。これも3セットかごに入れる。
最後にお惣菜コーナーだ。この時間帯だと割引シールが貼られているものがある。
今日はご飯を炊くのも面倒だ。と言っても、ここ一週間ご飯を炊いていないが。
2割引きシールが張られた「おにぎり弁当」を手に取り、かごの中に入れる。
今買いたいものは全てかごの中に入れたので無人レジに行った。レジ袋を購入し、それに買った品を詰める。
会計を済ませ、スーパーを後にする。
外はすっかり暗くなっており、後ろのネオンが周辺を明るくしている感じだ。
人通りの少ない通路も、周辺の家の明かりや電灯によって周りがはっきり見える。
あとは家に帰って腹を満たして寝るだけだ。
『…ぞ…。』
頭の中から声が聞こえてくる感じがする。しかもこの声、今日の夢の中に出てきた声だ。
『…るぞ。』
「うるさい!黙ってろ!」
思わず叫んでしまった。幸い、周囲には誰もいない。赤っ恥をかかなくて済んだ。
『…くるぞ。』
声は俺の要求を聞かずに語り掛けてくる。
(「来る?」何が来るんだ?)
今日の夢のことを考える。あの声は何を言っていたか。様々な雑念の霧を祓いながら、夢の内容を思い返す。
『…ルールが来るぞ。』
ルール…。そうだ!あいつはアールールが攻めてくると言っていた。
(…アールールって何だ?)
そんなことを考えたその時、頭上から何かが降ってくるのを感じた。
それは速度を落とすことなく、こちらに向かってきている。
「マズいぞこれは!」
慌てて後ろに引き返す。その時、直接語り掛ける声がはっきりと聞き取れた。
『クソ神がくるぞ!』
目の前に光の柱が立った。その光は、周囲の明かりをかき消すほどに明るく、視界を塞いでもその明るさが伝わるほどだった。
眩しさが収まったので、ゆっくりと目を開ける。そこには、背中から白い翼を生やし、白銀の鎧を着た頭がゾウの化け物がいた。
「ここら辺にいるはずなんだけどなぁ。」
化け物は野太い声で独り言を言っている。
早くこの場を去らねば。だが、なぜか全身が動かない。
「おい、そこのお前。臭うぞ。」
化け物は俺の方に鼻を向けて言った。
「臭うって…何だよ。ていうか、お前は何者なんだよ!?」
化け物は軽く頭のてっぺんを鼻でかいた。
「我が名はハピル・ハカドーシュ。シェメゲン「アスファト・シェオル」所属の神だ。」
化け物は高らかに言った。
嘘…と思いたいが、先ほどの出来事を考えるに本当なのだろう。もしくは神のような力を持っている未知の生命体のようなものか。
「神?そんな大層なものが何しに来たんだよ。」
「この汚らわしい地上に、大罪神が逃げ込んだ。我々はその捜索任務にあたっているところだ。」
「へぇ。じゃあここにはいないな。俺以外誰もいないし。」
「そうなのだが…。どうもさっきからずっとこの辺りが臭うのだ。」
化け物は俺の方に鼻を向ける。
そして、長い鼻で俺の体臭を嗅ぎ始める。あまりに非現実すぎる状況に蒸し汗とは違う汗が流れ始めた。
一通り嗅ぎ終わると、化け物は俺の眼前に鼻を向けて言った。
「お前…ソロモンだな?」
そう言うと、化け物は眼前の鼻を大きく後ろに引いた。俺は反射的に腕を持ち上げ、顔面を守ろうとする。
だが、そう判断したときには視界が暗転していた。
背後の空気を押していく。そして、その勢いのまま壁に背骨を強打した。
「ちぃ!」
背骨のあたりから鈍い音が聞こえる。手足の間隔がどんどん引いていく。
目が全く見えない。鼻で呼吸しようにも鼻が変形しており、まともに呼吸ができない。
「我は他のシェメゲンと違って鼻が利く。そんなガワを被っても、我を騙すことは出来ん。」
足音がこっちに向かってきている。
両腕両足の間隔がなくなってきた。辛うじて何らかの液体が背中から流れているのを感じれる程度だ。
「消えろ。」
顔に僅かな風が当たった。最後に感じたのは、それだけだった。
気が付くと、四方全てが漆黒の空間にいた。
感覚がなかった両腕両足も、なぜか自分の意思で動かせるようになっている。
さっきまでの激痛が完全になくなっている。顔を触ってみると、潰されたはずの目や鼻がしっかりある。
「そうか。死んだのか、俺。」
今思えば、後悔が残る人生だった。
大学生の夏休みという膨大な自由時間を棒に振るようなことをした。不登校の時、散々迷惑をかけた親に対して何もできなかった。
「ごめん、母さん、父さん。」
「ほう、自らの意思で行動したにもかかわらず、悔恨の念はあるのだな。」
奥から声がした。間違いない、頭の中に語り掛けてきた声だ。
感覚を取り戻した足で一歩を踏み出してみる。この先は段差になっていない。おそらく走っても大丈夫そうだ。
声が聞こえた方向に向かって走っていく。周りを見てみるが、漆黒の空間が続いているだけで何もない。
奥から何かが見え始めた。走りながら目を細めて見る。
全身を黒い布のようなもので覆われている。…いや、よく見ると口元だけ覆われていない。口の周りを見てみるに、肌の色は俺たちと違って色が濃い。褐色肌といった感じだ。
「何者だ、お前。」
俺は強気に口だけ見える存在に言った。
その口がゆっくり開く。
「我はソロモン。地上を統べる王である。」
ソロモン…あの化け物が言っていた名だ。
「そんな大層な王様がなんでこんな場所で口以外縛られているんだよ。」
「今話しても良いが、もうじきこの時間が終わる。」
「どういう意味…。」
急に視界がぼやけていく。目の前が歪んでいき、足元がふらついてくる。
「何を…した?」
「後で話すとしよう。貴様、面白いものが見えるぞ。」
辛うじてそれだけが聞こえた。そこから先は、何も聞き取れなかった。
気が付くとあの帰り道で突っ立っていた。
「何だよ、これ…。」
視界の先には、鎧の中央部がくり貫かれて倒れている化け物がいた。口の周りが赤くなっており、化け物の周囲には赤い液体が広がっている。くり貫かれた穴からは臓物のようなものが零れていた。
「うっ!!」
強烈な吐き気がきた。あまりの衝撃に脳が異常事態を起こしているのか。口で手を抑えようと手元を視界に持ってくる。
「は?」
手が赤黒くなっていることに気が付いた。だが、不思議と液体によって濡れているという感覚がない。アルコール消毒のような感覚だ。よく見てみると、付着している液体が気体となって空気中に出ていく。
「服は!?」
服にも返り血のように付いていた。だがこれも、気体となって空気中に出ていく。
まわりを見渡す。人影が全くない。だが、今見つかれば自分は刑務所行きになるかもしれない。
(逃げないと!)
その場から立ち去ろうとしたその時だった。
『手に入れたものを捨てて行くのか。』
またあの声がした。
叩きつけられた壁の方を見る。ひび割れた壁の近くに、この事件の前に買ったものが放られていた。
それを大急ぎで手に取り、この事件現場を後にした。
家の扉の前までやってきた。幸い、誰に会うこともなくここにたどり着くことができた。
ドアノブを触ろうとしたが、手は赤黒く汚れている。もしこれで触れば、それがドアノブにつき、近所の人に変な目で見られるだろう。
「ハンカチ持って行くべきだったな。」
俺は仕方なく左腕を返り血が付いた服の中にしまい、その服越しにドアノブを触って扉を開けた。扉を閉じるとき、ドアノブの方に視線を向ける。ドアノブは触る前と同じ状態だ。
家に入るとすぐに洗面所に向かった。赤黒くなっている腕を冷水で洗い流すためだ。
赤黒い手で蛇口を最大までひねり、勢いよく流れる水に腕を突っ込む。
返り水が服や床に飛び散っているが、気にせずゴシゴシ洗い落とす。
「どういうことだ?」
赤黒色はしっかり落ちているが、水の色は無色のままだ。絵具などでは絶対に起こらない。洗い落とすということは付いている液体を剥がすこと。なら、剥がれた液体は水と共に流れるはずだ。だが、この赤黒は剝がれてはいるもののそれが水と共に落ちていない。この世の常識から逸脱している。
一通り洗い終えたので、蛇口を閉め、服を脱ぐ。
全裸になり、シャワー室に向かった。
シャワーの蛇口をひねり、身体を洗おうとしたその時だった。
「何だよ、これ!?」
腹部に謎の文様が記されているのが目に入った。
シャワーの水を最大にし、勢いよく流れる水を文様目がけて当てる。だが、文様は消える気配が全くない。
「なら!」
シャワー室に置いてあるボディーソープを手に取り、シャワーを持っていない方の手に泡をかける。泡立った手で文様部分を削るように洗っていく。
だが、いくらやっても文様はびくともしなかった。皮膚に描かれているというより、皮膚に彫られているもののように思えてきた。
「一体全体、どういうことなんだよ!」
シャワー室内に困惑声が響いた。
身体を洗い終え、パジャマに着替える。
パジャマに着替え終えると、玄関に放っておいたスーパーのレジ袋の方に行く。
「消えてる…?」
帰っていく際、手で持っていたため赤黒くなっていた持ち手部分の色がすっかり落ち、透明になっていた。シャワーを浴びてる数分の間に全部気化したとでも言うのだろうか。本当に理解が追い付かない。
レジ袋から買った品を取り出し、冷蔵庫に閉まっていく。そして、冷蔵庫から消費期限切れの生ハムを取り出し、ごみ箱に捨てた。
「食っとかないとな。」
おにぎり弁当をちゃぶ台に持って行く。一緒についてきた割り箸を割り、ラップを剥がし、ふたを開けておにぎりを掴み食おうとした。
脳裏によぎる、臓物が飛び散る惨状。強烈な吐き気が襲ってくる。これじゃまともに食える気がしない。
おにぎりを元に戻し、ふたをして冷蔵庫に閉まった。
「もう寝よ。なんか疲れた。」
掛布団を勢いよく広げ、ベットの中に入る。
部屋の電気のリモコンを手に取り、明かりを消した。
そして、ゆっくり眠りの谷へ落ちていった。




