第十四話:イシユート・エル
『ここだ。』
俺は足を止め、入り口を見る。
そこは、四階だった。馴染みのある、四階だった。
俺は目を閉じ、ゆっくり息を吸い、ゆっくり息を吐く。
あの時の光景が脳裏によぎる。全身の激痛が、一瞬だが体中に流れた。だが、不思議と恐怖心はなかった。
「よしっ!」
俺は、非常口の扉を開けた。
「来たか。」
俺の目に、衝撃を超える感情が入ってくる。
白い羽を生やし、あの天使と同じ鎧を着ている。腕部分から左右二本ずつ生えており、下側二本が4本指の昆虫のような手、上側二本は蟷螂のような鋭い鎌となっている。人間と同じ足を生やしているのが異質さを感じさせる。頭部は蟷螂であり、両側面に羽の飾りがついた兜を被っており、その兜には痛々しい傷が数カ所刻まれていた。
「マタタビ!」
蟷螂の怪物は、マタタビを拘束していた。下部の腕でマタタビの身体をバックハグの要領で動きを封じ込め、左上部の鎌でマタタビの首あたりに刃先を当てている。マタタビに出血や傷跡はないが、気を失っている。
俺はすぐにマタタビの方へ向かおうとした。
「待て。こっちへ来たらこいつの首を刎ねる。」
蟷螂の怪物は俺に目を合わせながら言ってきた。
俺は寸前で踏みとどまり、蟷螂の怪物へガンを飛ばす。
「誰だ、お前。」
蟷螂の怪物ダミ声で高らかに言った。
「我が名はガマル・シャロモ。シェメゲン「アスファト・シェオル」所属の神にして、「アスファト・シェオル」上位の戦闘力を持つ者だ。」
「なぁソロモン、『アスファト・シェオル』って何だ?」
俺は小声でソロモンに聞いた。
『「アスファト・シェオル」、冥界に送られた神或いは冥界出身のものがシェメゲンに所属する際に配属される場所だ。』
「強いのか?」
『そこそこ強いやつもいるが、あの名は聞いたことがない。』
「了解。」
ガマルは俺を興味深そうに見ている。
「おい小僧、今小声で喋っていたのは誰だ?」
ガマルの質問に、言葉が詰まる。
『我の名を言え。あやつの命が最優先だ。』
「ソロモンだ。よくわかんねぇけど俺の中に封印されているらしい。」
俺はソロモンのアドバイスに従った。
ガマルはそれを聞き、薄気味の悪い笑みを浮かべながら、癇に障る音域で笑った。
「やはりあのゾウ野郎から情報を得て正解だった。まさか本当にこんな小僧の肉体に封印されているとは。」
ゾウ野郎…、あの時の化け物か。そういえばあの時の化け物も『アスファト・シェオル』みたいなことを言っていた気がする。
「ここしばらく、小僧を観察しててよかった。おかげで今、私は戦力的に不利だった相手に有利な状況を作り出しているからな。」
ガマルの自慢げな口調は、声も相まって不快感を助長させる。
「なぁソロモン、どうすればいい?」
俺はガマルの自慢話を無視し、ソロモンに助言を求めた。
『今のお前では何もできん。どうにかして我に肉体を貸せ。』
「はぁ?できるわけないだろ。こっちは一回死なねぇといけねぇんだぞ。」
『だが今の状況では何もできん。』
実際ソロモンの言うとおりだ。
ソロモンに入れ替わればこの状況を一発でひっくり返すことができる。だが、今そんなことをしようとすればガマルに気づかれてマタタビが殺される。
「…わっほい!?」
人質となっていたマタタビが目を覚ました。
「わっほい、これ今どんな状況?」
「マタタビ、ちょっと待ってて。今僕が…。」
「計画が崩れた。」
そう言うと、ガマルは首に当てていた左鎌を押し込み、勢いよくそれを引いた。
マタタビの首から鮮血が噴き出し、床に零れていく。
ガマルは不機嫌そうに抑え込んでいた下部の腕二本の力を緩め、鮮血で染まった床に放り投げた。
マタタビが倒れ込んだことで血だまりがはじかれ、それが俺のズボンに数滴付着した。
「もっと強くやるべきだったな。いや、いっそのこと死体をあたかも生きてるようにして振舞えば計画が狂うことがなかったな。」
「おい。」
俺の心は怒りを超えていた。
自分にとって唯一といってもいい友を、孤独な大学生活唯一の外界とのつながりを、気まぐれに寄って殺された。
おまけに最初に殺しておくべきだったとぬかしていやがる。
こいつは、生かしておくわけにはいかない。
「何してんだ、てめぇ。」
ガマルは不機嫌そうにこっちを向いた。
「このまま君からソロモンに関する情報を聞き出そうと思っていたのだが、こいつが勝手に動き出してねぇ。会話の邪魔をされるから始末した。あーあ、せっかくここで待ち伏せして、来たところを襲って気絶させたのに。」
「黙れ。」
「やっぱり地上の民は軟弱だな。ちょっと小突いたりするだけでくたばってしまう。だが、地上の民で遊ぶのは悪くないな。」
「黙れ。」
「こんなやつ、どうせすぐに生えてくる。高々一人消したところで、地上が滅ぶなんてことないだろ?何でそこまで怒る?」
「だまれ!」
俺は腹から全力の声を出した。
俺の声が四階全体に響き渡る。
「お前は…生きてちゃ駄目な存在だ。」
「ソロモンの封印要因で生まれた貴様に言われる筋合いはない。さっさと情報吐いて私に殺されろ。」
俺の怒りは、ブレーキを失った。
緊張によって動かなかった足を踏み出し、ガマルの方へ向かう。
ガマルはあくびをしており、警戒を全くしていない。
「死ね!」
俺はガマルに殴りかかった。
わかってる。どうせ自分はこのクソ野郎を倒すことが出来ないことは。
でもここで挑まなければ、強者に屈する弱い自分という烙印が押されると思う。今まではそんな自分が嫌いだと言いながら何もしなかった。
だが、今は違う。あいつと出会って、前へ進まなければならないことを学んだ。
もう、振り返らない。振り返りたくなることをしたくない。
俺の拳がガマルの顔面目前まで来た、その時だった。
「うるさい。」
突然腹部に激痛が走る。
俺はゆっくり腹部に視線を向けた。
ガマルの右鎌が、俺の腹に突き刺さっていた。
腹と背中から血が流れているのを感じる。血が肺に入ってきて呼吸がしづらい。
ガマルは俺に顔を寄せ、冷徹な口調で言った。
「なぁ、お前が死ねばソロモンはどうなる?」
質問が耳に上手く入ってこない。激痛が全身を巡って身体を思うように動かせない。
必死に口を動かすが、口から血が零れるだけで思うように喋れなかった。
「それを吐いたら助けてやる。って言おうとしたが、どうやら吐ける状態じゃないな。」
ガマルは血の付いた左鎌を俺の首元に当てた。
そして、それを大きく振って、俺の首を裂いた。
ひと時の娯楽の空間に、血しぶきがまた吹き上がった。




