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第四章 引くほう

 雨の日の帰り道から数日して、教室の空気は少し落ち着いていた。


 最初の一週間にあった探り合いの高い笑い声は減って、代わりに、もう決まりかけた輪の中で交わされる会話が増えている。誰が誰の近くにいるかで、だいたいの立ち位置が見えてしまう時期だった。


 澄は昼休み、いつものように席を立とうとして、


「雨宮さん」


 その声で止まった。


 ひかりが机に肘をついて、当然みたいな顔でこちらを見ている。


「今日、中庭じゃないの?」


「……行くつもりでした」


「じゃあ一緒に行こ」


 断る理由を考えるより先に、周りの空気が一瞬だけこちらを向いたのがわかった。


「ひかりちゃん、また?」


 斜め前の席の女子が、面白がるみたいに声を上げる。


「またってなに」


「え、だって最近よく一緒にいるじゃん」


 軽い言い方だった。

 けれど、その軽さの中にちゃんと観察が入っている。


「そう?」


 ひかりは笑って返した。

 いつも通りの声。いつも通りの笑い方。

 でも、澄にはそのあと一拍だけ言葉を探したのがわかった。


「そうだよ。移動教室も帰り道も、なんかセットじゃん」


「セットって、言い方」


「仲よしなんだなーって」


 そこで何人かが小さく笑う。

 悪意はない。ただ、見えているものをそのまま口にしただけだ。


 澄はこういうとき、どういう顔をしていればいいのかわからない。

 否定するのも変だし、肯定するのも妙だった。


「……別に」


 何か言おうとして、それ以上が続かない。


 ひかりがそんな澄を見て、ふっと笑った。


「そう。雨宮さんとわたし、仲よしなんです」


 言い切られて、澄は一瞬だけ息を止めた。


 周りから「へえー」とか「言ったー」とか、からかうような声が飛ぶ。

 ひかりは全部を軽く受け流しながら立ち上がった。


「はいはい、昼休みなくなるから解散ー」


 そのまま澄の机の横へ来て、鞄から昼食を取り出す。


「行こ」


「……はい」


 教室を出るまでの数歩が、いつもより少しだけ長く感じた。


 廊下へ出ると、さっきまで聞こえていた笑い声が薄くなる。

 それでも澄は、まだ胸のあたりが落ち着かなかった。


「ああいうの、平気なんですか」


「ああいうのって?」


「……見られるの」


 ひかりはきょとんとして、それから意味がわかったみたいに「んー」と唸った。


「いつもは平気」


「今日は違うんですか」


「今日はちょっと、雨宮さんが固まってたから」


「固まってましたか」


「うん。あ、いま逃げたいなって顔してた」


「そんな顔はしてないです」


「してたよ」


 ひかりは笑った。

 でも、からかうみたいな笑い方ではなかった。


「ごめんね」


「……何がですか」


「勝手に言ったから。仲よしって」


 謝られると思っていなくて、澄は少しだけ言葉に詰まる。


「嫌だった?」


 階段の踊り場で、ひかりが立ち止まった。

 教室の外に出たからか、声の温度が少し下がる。

 いつもの軽さを残したまま、でも本当の答えを聞きたがっている声だった。


 嫌ではない。

 ないけれど、では何なのかをうまく説明できない。


「……慣れてないだけです」


「そっか」


 ひかりはそれ以上すぐには聞かず、手すりに軽く触れたまま前を向いた。


「わたしは、ちょっとうれしかった」


 その言い方はずるい、と思う。

 冗談みたいな顔をして、たぶん本当のことを混ぜてくる。


「なんでですか」


「えー、言わせる?」


「聞いたのは早瀬さんです」


「そうだけど」


 ひかりは少しだけ唇を尖らせて、それから肩をすくめた。


「雨宮さんって、ちゃんとわたしと一緒にいてくれるじゃん」


「……はい」


「それを、人前でも否定されなかったから」


 階段の窓から入る光が、ひかりの横顔を少しだけ明るくする。

 笑っている。けれど、無理に明るくした顔ではない。


「それだけ?」


 自分でも少し意地の悪い聞き方だと思った。


 ひかりは目を瞬いてから、吹き出した。


「なに、欲張り」


「違います」


「でも、そうだなあ」


 ひかりは一段下へ降りて振り返った。

 視線の高さが少しずれる。


「わたし、雨宮さんといるの、けっこう好きだよ」


 踊り場の空気が、一瞬だけ止まった気がした。


 澄は返事を探す。

 好き、という言葉自体は珍しくない。友達同士でも普通に使う。そうわかっているのに、今のひかりの言い方は少しだけ、その普通から外れて聞こえた。


「……そうですか」


「うん」


「軽いですね」


「重く言ったら困るでしょ」


「それは」


「ほらね」


 ひかりは勝ち誇ったみたいに笑って、先に階段を下りていく。


 澄はその背中を見ながら、小さく息を吐いた。

 言われて困ったのは事実だ。

 でも、嫌ではなかった。


 それを認めたくない気持ちだけが、胸の奥に残った。


 その日の放課後、図書室はほとんど空いていた。


 窓際の長机に数人、試験とはまだ縁のない時期に真面目そうな顔をして座っているだけで、あとは司書の先生がカウンターの向こうで静かにページをめくっている。紙の匂いと、誰かが椅子を引く小さな音だけがある。


 澄は返却棚の前で足を止めた。

 本を返しに来たのは本当だ。でも、来た理由がそれだけではないこともわかっていた。


 静かな場所にいたかった。

 誰にも話しかけられず、自分の考えだけで済む場所に。


 昼休みの階段で言われた言葉が、まだ頭の中に残っている。


 `わたし、雨宮さんといるの、けっこう好きだよ`


 軽い調子だった。冗談に逃がせる声だった。だから余計に、まともに受け取ってはいけない気がした。


 なのに、まともに受け取ってしまった。


 ページをめくるふりをしても、文字はひとかたまりの黒にしか見えない。


 近づけば見えてしまう。

 見えてしまえば、言いたくなる。

 言ってしまえば、壊す。


 前にも、そうだった。


 あれは中学二年の冬で、教室ではなく部活の準備室だった。

 泣いていないと言い張る友達に、泣きそうだと言ってしまった。

 大丈夫だと言い張る相手に、大丈夫じゃないでしょうと言ってしまった。


 正しかったかどうかは、今でもわからない。

 ただ、そのあと相手がひどく傷ついた顔をして、もう話しかけないでと言ったことだけは、はっきり覚えている。


 そのとき初めて、自分の見えているものが誰かを救うとは限らないのだと知った。

 触れられたくないところに触るだけかもしれない、と。


「……やっぱりいた」


 小さな声で名前を呼ばれたみたいに、心臓が一度だけ跳ねた。


 顔を上げると、図書室の入口近くでひかりがこちらを見ていた。


 制服のまま、鞄を肩にかけている。ここに来る予定ではなかったのだろう。図書室の静けさの中でだけ、ひかりの明るさは少し居場所を失う。


「探しましたか」


「うん、ちょっと」


 ひかりはあっさり認めてから、声を落とした。


「あのさ、一緒に帰ろうと思ってたんだけど」


「今日は、本を返すので」


「そっか」


 それだけ言って引いてくれるなら、たぶん楽だった。

 けれどひかりは立ち去らず、本棚の影をひとつぶん詰めるみたいに近づいてくる。


「終わるまで待っててもいい?」


 澄はそこで、初めてちゃんと困った。


 ここで待たせたら、たぶんまた一緒に帰る流れになる。

 それを嫌だと思っているわけではない。

 嫌ではないから、困る。


「……待たなくて大丈夫です」


 思ったよりも先に、言葉が出た。


 ひかりが足を止める。


「え」


「その、今日は」


 続きがうまく言えない。

 図書室の静けさのせいで、言葉の温度だけがやけに目立つ。


「一人で帰りたいので」


 それは嘘ではなかった。

 でも、本当の全部でもなかった。


 ひかりは何か言おうとして、少しだけ口を閉じる。

 目が揺れたのは一瞬だけで、すぐにいつもの笑い方が戻った。


「そっか。ごめん、邪魔した」


「邪魔では」


「ううん、大丈夫」


 その大丈夫は、澄がいちばん信用しない言い方だった。


 止めるべきか迷う。

 そのあいだに、ひかりはもう後ろへ下がっていた。


「じゃあ、また明日ね」


 静かな声だった。

 明るくしようとして、少しだけ失敗した声だった。


 ひかりが図書室を出ていく。

 ドアが閉まる音は小さいのに、そのあとに残る静けさはやけに大きかった。


 追いかけようとは思わなかった。

 いや、思ったのに、動けなかった。


 ここで追いかけたら、また近づいてしまう。

 近づいた先で、自分が何を壊すか、わからない。


 返却台に本を置く。

 司書の先生が静かに受け取ってくれる。

 それだけのことなのに、指先が少しだけ冷えていた。


 帰り道は一人だった。


 駅までの歩道はいつもと同じで、コンビニの前には高校生がいて、信号待ちの車が連なっている。風景は何も変わっていないのに、数日前よりずっと遠く見える。


 ひかりがいないだけで、こんなに静かになるのかと思った。


 静かなほうが好きだったはずだ。

 そういうふうに、ここまでやってきたはずだ。


 それでも、信号待ちで隣が空いていることに気づくたび、少しだけ落ち着かなかった。


 スマホが一度だけ震えた。


 見なくても、誰からかわかる気がした。

 けれど澄はポケットから出さないまま、青になった信号を渡った。


 その夜、ベッドに入ってからようやく画面を開く。


 そこには短い文だけがあった。


 `了解ー。おつかれさま`


 絵文字も、追撃もない。

 軽く見せようとした形だけ残っていて、そのぶん余計に温度がない。


 澄はしばらく画面を見たまま動かなかった。


 これでよかったのだと思おうとする。

 距離を取るなら、早いほうがいい。

 それ以上近づいて、もっと困る前に。


 それでも、もっと違う返事を期待していた自分がいた。


 次の日の朝、教室の扉を開けた瞬間にわかった。


 ひかりが、いつもより少し明るい。


 それだけなら、たぶん誰も気にしない。

 もともとよく喋るし、笑うし、空気を回すのがうまい。朝から友達に囲まれていることも珍しくない。


 でも今日は、笑うまでが速すぎた。

 相手の言葉が落ちる前に笑って、次の話題を拾って、会話の隙間ができる前に別の誰かへ振る。見事なくらい流れが止まらない。


 止めたくないのだ、と澄にはわかった。


「ひかりちゃん、昨日のドラマ見た?」

「見た見た、あれ絶対あの先輩黒だよね」

「わかる!」

「でも逆にミスリードっぽくもない?」

「うわ、ありそう」


 教室の前のほうで、会話が途切れない。

 ひかりはちゃんと中心にいて、ちゃんと楽しそうで、ちゃんと人気者だった。


 だから余計に、見ていられなかった。


 澄は自分の席に座って、文庫本を開く。

 文字は全然頭に入らない。


 ちらりと顔を上げると、ひかりが別のグループの呼びかけにもすぐ反応していた。椅子に座る暇もないみたいに、立ったまま誰とでも話している。


 無理をしているときほど、あの子は器用だ。


 それがわかってしまうこと自体、少し腹立たしかった。

 わかるなら何だというのだ。

 昨日、自分は何もしなかったくせに。


「雨宮さん」


 名前を呼ばれて顔を上げる。

 ひかりが、いつの間にか机のそばまで来ていた。


「おはよ」


「……おはようございます」


「かた。そこは普通におはようでよくない?」


「そうですか」


「そうです」


 ひかりは笑う。

 でも目が笑いきる前に、もう次の言葉を用意している。


「あ、そうだ。今日の一時間目のプリント、先生が早めに配るって言ってたよ」


「知ってます」


「そっか。じゃあ、えっと」


 言葉が珍しく一瞬だけ途切れる。

 すぐにひかりはそれを笑いに変えた。


「あれだね。雨宮さん、相変わらずちゃんとしてるね」


「早瀬さんこそ」


「え、わたし?」


「今日は特に」


 そこまで言って、やめればよかったと思った。


 ひかりの笑顔が、ほんの少しだけ硬くなる。


「そっか」


 短く返して、ひかりは机に置いた手を離した。


「じゃ、またあとで」


 またあとで、という言い方はいつもと同じなのに、温度だけが違った。


 澄は呼び止められなかった。


 一時間目と二時間目のあいだの休み時間も、昼休みも、ひかりはずっと誰かと一緒にいた。

 誰にでも同じように笑って、同じように話して、同じように明るい。

 そのどこにも、澄が割って入る余地はない。


 勝手に特別な気になっていただけかもしれない。

 そう思えば楽なはずなのに、雨の日の帰り道の声が邪魔をした。


 昼休みの終わり頃、ひかりが友達数人と笑いながら廊下を歩いていくのが窓から見えた。

 その中の一人がひかりの肩に手をかける。ひかりは大げさに騒いで、それを笑いに変える。


 完璧だった。

 少なくとも、外から見るぶんには。


 でもその瞬間、ひかりがほんの少しだけ足を止めたのを、澄は見た。

 誰にも気づかれないくらい、一瞬だけ。

 呼吸がずれたみたいな止まり方だった。


 喉の奥が、鈍く沈む。


 放課後になっても、ひかりの勢いは落ちなかった。

 むしろ朝よりも明るいくらいで、教室に残った何人かの中心で笑い続けている。


 澄は鞄を持って立ち上がる。

 本当なら、関わらないまま帰るつもりだった。

 それが自分で選んだ距離のはずだった。


 けれど教室を出る直前、ひかりの声が少しだけ裏返るのが聞こえた。


「え、なにそれ、ひどくない?」


 大きな笑い声が起こる。

 たぶん会話の流れとしては自然だったのだろう。周りの誰も変に思っていない。


 でも、ひかりだけ一拍遅れて笑った。

 笑わなければいけない場所を、頭で追いかけたみたいに。


 澄は扉の前で足を止めた。


 後ろを振り返る。

 ひかりは笑っている。いつも通りに、うまく、感じよく。

 そのくせ、今すぐ一人にしないほうがいい顔をしていた。


 喉の奥まで言葉が上がる。

 でも結局、出せない。


 昨日、自分で線を引いた。

 その線を、今日になって勝手に越えることはできない。


 澄は視線を戻して、教室を出た。


 廊下の空気は少しひんやりしていて、それでも胸の内側だけが落ち着かない。

 見て見ぬふりをしている、という感覚だけが、歩くたびにはっきりしていく。


 そのまま帰るつもりだった。


 昇降口で靴を履き替えて、鞄を肩にかけて、校門まで来てもまだ、自分は帰るのだと思っていた。見て見ぬふりをするなら最後までそうするしかない。中途半端がいちばん悪い。


 なのに、校門の外にひかりの姿を見つけた瞬間、足が止まった。


 ひかりは一人だった。

 スマホを見ているふりをして、校門脇の植え込みのそばに立っている。誰かを待っているようにも見えるし、ただ立ち尽くしているようにも見える。


 数秒だけ迷っているあいだに、ひかりはスマホをしまって歩き出した。

 駅とは逆の方向だった。


 澄は追うべきではないと思った。

 思ったのに、気づけば同じ方向へ歩いている。


 十分もかからない場所に、小さな公園がある。

 駅前の喧騒から少し外れた、ブランコとベンチしかないような場所だ。夕方には犬の散歩をする人がいるくらいで、学生がわざわざ立ち寄ることは少ない。


 ひかりはその公園の入口で立ち止まり、誰もいないのを確かめるみたいに一度だけ周りを見てから、中へ入った。


 澄は数歩遅れて足を止める。

 ここで帰ることもできた。

 見なかったことにして、引き返すこともできた。


 けれど、その選択をするにはもう遅かった。


 公園の奥のベンチに、ひかりが座る。

 俯いて、鞄を膝の上に置いたまま動かない。


 風が吹いて、遊具の鎖がかすかに鳴る。

 夕方の光はもう弱くて、公園の影だけが少しずつ濃くなっていた。


「早瀬さん」


 呼んだ声は、自分で思っていたより低かった。


 ひかりの肩が、びくりと揺れる。

 ゆっくり振り返った顔には、笑顔がなかった。


「……なんでいるの」


「帰るところでした」


「答えになってない」


 その通りだった。


 澄は少しだけ距離を空けたまま、ベンチの端を見る。


「座ってもいいですか」


「好きにすれば」


 投げるみたいな声だった。

 でも、帰れとは言われなかった。


 少しだけ離れて腰を下ろす。

 間に人ひとり分くらいの距離がある。触れられないし、触れない距離だった。


 しばらく、どちらも喋らなかった。


 公園の外を車が通る音がして、すぐに遠ざかる。

 学校の中とは違う静けさだった。誰も見ていない代わりに、ごまかす理由も少ない静けさ。


「……笑わないんですね」


 先に口を開いたのは澄だった。


 ひかりは少しだけ俯いたまま、乾いた声で笑った。


「笑ってほしい?」


「違います」


「じゃあ、何」


 ひかりの声は強くなかった。

 強くしようとして、その手前で力が抜けたみたいな声だった。


「今日は、朝からずっと」


「うん」


「無理してました」


 言い切ると、ひかりはそれを否定しなかった。

 ただ、膝の上の指先が少しだけ強く組まれる。


「……そう見えた?」


「見えました」


「そっか」


 短い返事のあと、沈黙が落ちる。

 ひかりは前を向いたまま、ブランコのほうを見ている。

 乗る人のいないブランコは、風が吹くたびほんの少しだけ揺れた。


「雨宮さんって、ずるいよね」


「何がですか」


「見えるくせに、来ないときは来ない」


 胸のあたりが痛くなる言い方だった。

 責める声ではない。ただ、本当のことを置かれただけなのに、逃げ場がなかった。


「昨日、図書室で」


 ひかりはそこで一度だけ息を止めて、続けた。


「ああ、そっかって思ったんだ」


「……何がですか」


「わたし、ちょっと勘違いしてたなって」


 澄は言葉を返せない。


 勘違い。その中身がわからないほど鈍くはなかった。


「雨宮さんって、わたしのこと見てくれるじゃん」


 ひかりは笑わなかった。

 そのかわり、ひどく静かな顔で前だけを見ていた。


「だから、勝手に思ってた。ちょっとくらい特別なのかなって」


 最後のほうだけ、少し声が揺れた。


 たぶん、その揺れを聞いた瞬間に澄は何か言うべきだった。

 違うとか、ごめんなさいとか、もっと別の何かを。

 でも、喉の奥で言葉が全部ひっかかる。


「でも違ったね」


「違わないです」


 気づけば、そう言っていた。


 ひかりがゆっくりとこちらを見る。

 驚いた顔ではなかった。ただ、信じていいのか測っている顔だった。


「じゃあ、なんで昨日」


 そこだけは、ちゃんと答えなければいけないと思った。


 逃げたくても、もう逃げる言い方はできない。


「近づきすぎると」


 声が少し掠れる。


「自分が、壊す気がして」


 ひかりの眉がわずかに寄る。


 澄は視線を膝の上に落としたまま、続けた。


「前に、一度ありました」


「……うん」


「相手のことが見えている気になって、言わなくていいことまで言って、関係を壊しました」


 言葉にすると、記憶の輪郭がまた少しだけ鋭くなる。

 冷えた準備室、泣きそうな顔、もう話しかけないでと言われた声。


「だから、見えても踏み込まないほうがいいって思ってました」


「わたしにも?」


「……はい」


 ひかりはしばらく何も言わなかった。

 怒るかもしれないと思った。呆れるかもしれないとも。


 けれど返ってきたのは、小さな息だった。


「そっか」


 それは理解でも許しでもなく、ただ受け取っただけの声だった。


「じゃあさ」


「はい」


「今日も、本当は来ないつもりだった?」


 澄は少しだけ間を置く。


「……はい」


「でも来た」


「来ました」


「なんで」


 その問いだけは、簡単だった。


「見ていられなかったので」


 ひかりが目を伏せる。

 長い睫毛が影を落として、その下の表情が少しだけ見えなくなる。


「それ、だめだよ」


「何がですか」


「そういうこと言うの」


 責めるような声ではない。

 むしろ、泣きそうな人が笑うのをやめたときの声だった。


「期待するじゃん」


 その一言が、いちばん深く刺さった。


 ひかりはそこで初めて、顔を歪めた。

 泣くわけではない。けれど泣かないために、口元に余計な力が入っている。


「わたし、ちゃんとやれてたよね」


 誰に聞くでもないみたいに、ひかりはぽつりと言った。


「教室で。今日も。いつも通りに」


 澄は何も言えない。


「ああいうの、得意なんだよ。得意ってことにしてる。そうしないと楽だから。誰かと喋って、笑って、ちゃんとその場にいるほうが」


 言葉が少しずつ速くなる。

 止めたら崩れるから、その手前で喋っているみたいだった。


「なのにさ、雨宮さんといると、ちょっと楽なほう覚えちゃうんだよ」


 ひかりはそこで、初めて声を落とした。


「頑張らなくてもいい時間、あるんだって思っちゃったら、戻るのきつい」


 風が吹く。

 ブランコの鎖がまた小さく鳴る。


 ひかりは笑わなかった。

 もう笑えない、という顔でもなかった。

 ただ、ここでは笑う意味がないと諦めた顔だった。


「ごめんなさい」


 やっと出たのは、そんな言葉だった。


 ひかりは首を横に振る。


「謝ってほしいわけじゃない」


「……はい」


「ただ、わかんなくなっただけ」


 まっすぐ前を見たまま、ひかりは言う。


「近づいていいのか、だめなのか」


 その問いには、澄もまだ答えを持っていない。


 だから今ここでできるのは、逃げないことくらいだった。


「早瀬さん」


「なに」


「今日は、一人で帰らせません」


 ひかりがゆっくりこちらを見る。

 赤くなった目元が、夕方の影の中でもわかった。


「……それ、また期待するやつなんだけど」


「させます」


 言ってから、自分でも驚くくらい強い言い方だった。


 ひかりは数秒、呆れたように澄を見て、それから小さく笑った。

 今まででいちばん弱い笑い方で、


「ほんと、期待するじゃん」

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