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第五章 本音のほう

 それでも、そこで全部がうまく収まるわけではなかった。


 公園を出るとき、ひかりは「今日は大丈夫」と言って澄より半歩前を歩いた。

 大丈夫ではないと澄にはわかったけれど、ここで無理に隣へ行くのも違う気がした。


 駅までの道は夕方の人通りで少し混んでいて、二人のあいだの沈黙も人の流れに紛れる。

 ひかりは笑っていなかった。

 でも、さっきみたいに壊れかけているわけでもない。

 ただ、何かを決めようとしている横顔だった。


 駅前の信号を渡る直前、ひかりが足を止める。


「ここでいいよ」


 澄も止まる。


「改札、向こうなので」


「うん。でも、今日は別々に行きたい」


 その言い方はやわらかかった。

 やわらかいのに、線を引く音がした。


 澄は一瞬だけ返事を失う。


「……そうですか」


「うん」


 ひかりはそこで笑った。

 口元だけで作る、相手を安心させるための小さな笑い方だった。


「今日、来てくれたのはうれしかった」


「はい」


「でも、その場の勢いで近づくの、たぶんよくない」


 信号待ちの人たちが、二人の横に少しずつ増えていく。

 知らない誰かの会話、車の音、駅から流れてくるアナウンス。その全部があるのに、ひかりの言葉だけは妙にはっきり聞こえた。


「雨宮さん、優しいよ」


「違います」


「そういう否定、いまはいらない」


 ひかりは苦く笑った。


「優しい。でも、こわい」


 その一言に、澄は動けなくなる。


 わかっていたはずのことを、言葉にされると息が詰まる。


「見てくれるし、来てくれるし、放っておかない。でも、急にいなくなる」


 信号が青に変わる。

 人の流れが動き始める。

 ひかりはその流れに乗るみたいに一歩踏み出して、それから少しだけ振り返った。


「それ、たぶん一番だめ」


 そこで行かせたら、本当に終わる気がした。


 澄は考える前に足を出していた。


「待ってください」


 ひかりの目がわずかに見開かれる。

 周りの人が二人の横をすり抜けていく。信号を渡る流れの中で立ち止まるのは少し邪魔だったけれど、もうそんなことを気にしている場合ではなかった。


「何」


 ひかりの声は静かだった。

 怒ってはいない。でも、次の言葉を間違えたら本当に離れる顔をしていた。


 澄は喉の奥でひっかかった呼吸を整える。

 こういうときに上手い言葉が出てこないことを、自分はもう知っている。

 だから、飾らないで言うしかなかった。


「一番だめなのは、わかっています」


「じゃあ」


「でも」


 ひかりの言葉を、初めて途中で遮った。

 自分でも驚くくらい、まっすぐ声が出た。


「それでも、離したくないです」


 ひかりが何も言わない。

 車の音が近くを抜けていく。駅前の電子音が遠くで鳴る。


 澄は続けた。


「怖いです」


 ひかりの目が少しだけ揺れる。


「近づくのも、間違えるのも、傷つけるのも」


「……うん」


「でも、早瀬さんが笑ってるときより」


 ここまで言って、息を吸う。

 逃げられない言葉を選ぶときの息だった。


「笑ってないときのほうが、好きです」


 言った瞬間、周囲の音が一度遠のいた気がした。


 ひかりの表情が止まる。

 冗談にすることも、笑って流すこともできない顔だった。


「それ」


 ひかりがやっと声を出す。


「……ずるい」


「知ってます」


「知らないでしょ」


「今わかりました」


 間が落ちて、ひかりは俯いた。

 肩がわずかに震える。

 泣いているのか笑っているのか、最初はわからなかった。


 でも次に顔を上げたとき、その目元は少しだけ濡れていた。


「わたしさ」


「はい」


「明るくしてないと、たぶん置いていかれるって、ずっと思ってた」


 ひかりの声は小さい。

 けれど今まででいちばん、まっすぐだった。


「だから笑うし、喋るし、誰にでも行く。そうしてれば、たぶん大丈夫だから」


 そこで一度だけ、ひかりは息を吐く。


「でも、雨宮さんの前だとそれがいらなくなるの」


 夕方の風が二人のあいだを抜ける。

 制服の裾が少し揺れる。


「いらなくなるのに、なくしたら怖くて」


「……はい」


「だから、わたしもわかんなくなってた」


 ひかりは目をこすらずに、ただ澄を見た。


「好きになっていいのか、どこまで行っていいのか」


 その言い方は、答えを求めているようで、実はひどく怯えていた。


 澄はすぐには返せない。

 はっきりした未来の言葉なんて持っていない。

 絶対に傷つけないとも言えないし、もう逃げないと断言する資格があるのかもわからない。


 だから、言える範囲で正直に言うしかなかった。


「たぶん、また間違えます」


 ひかりが少しだけ目を瞬く。


「でも、今度は」


「うん」


「逃げないようにします」


 ひかりは数秒、澄の顔を見つめていた。

 測るように。信じていいか決めるように。


 それから、息を吐くみたいに笑った。

 今度の笑い方は弱いのに、どこか晴れていた。


「それ、告白みたい」


「違います」


「違わないでしょ、たぶん」


 即答しようとして、澄は止まる。

 違わないのかもしれないと思ってしまったからだ。


 ひかりはその沈黙を見て、少しだけ楽しそうに目を細めた。

 久しぶりに見る、でも前よりずっと静かな笑い方だった。


「……じゃあ、ひとつだけ約束して」


「何ですか」


「急にいなくならないで」


 簡単な言葉だった。

 簡単なのに、さっきまでのどんな言葉より重かった。


 澄は頷く。


「努力します」


「そこは、はいって言って」


「はい」


 ひかりが吹き出す。


「変なとこ真面目」


「早瀬さんほどじゃないです」


「それ、褒めてる?」


「事実です」


 雨の日にもしたやり取りだった。

 でも今は、もう前のままではなかった。


 信号はまた赤に戻っていて、人の流れも一度途切れていた。

 ひかりは改札のほうを見てから、もう一度澄を見る。


「今日は一緒に行く?」


 その聞き方には、前みたいな勢いがなかった。

 そのぶん、本当に選ばせる声だった。


「行きます」


「うん」


 今度はひかりが先に歩き出す。

 でも二歩目で止まって、当然みたいに隣を空けた。


 澄はそこへ並ぶ。


 肩は触れない。

 でも前より、その距離が自然だった。


 改札へ向かう人波の中で、ひかりがふいに小さく笑う。


「ねえ」


「はい」


「やっぱり雨宮さん、静かなのに静かじゃない」


「まだ意味がわかりません」


「わたしも全部はわかってない」


 ひかりはそう言って、今度はちゃんと楽しそうに笑った。


 その笑い方は、教室の真ん中で作るものとは違っていた。

 軽くて、やわらかくて、でも無理がない。


 澄はそれを隣で聞きながら、これからも簡単ではないのだろうと思った。

 また間違えるかもしれないし、怖くなることもある。

 それでも、隣にいることを選んだのは自分だ。


 駅の改札の光が、夕方の中で白くにじんで見える。

 その手前で、ひかりがほんの少しだけ歩幅を緩める。

 置いていかないための速さだと、澄にはわかった。


 だから今度は、自分からその歩幅に合わせた。

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