第三章 雨と距離
雨が降り出したのは、六時間目が終わる少し前だった。
窓ガラスに細かい粒が当たり始めて、いつの間にか教室の外が白く煙っていく。春の雨はもっと軽いものだと思っていたのに、今日は最初からちゃんと本降りだった。
「うわ、最悪」
前のほうで誰かが言って、あちこちで同じような声が上がる。
傘を持ってきた者、持ってきていない者、コンビニで買うか駅まで走るかで騒ぐ者。放課後の教室は、いつもより少し浮き足立っていた。
澄は鞄の横のポケットを確かめる。
折り畳みではない、普通の傘。朝の空が怪しかったから持ってきて正解だった。
「雨宮さん」
今日は名前を呼ばれる回数が多いな、とぼんやり思いながら顔を上げる。
ひかりが机に頬杖をついて、こちらを見ていた。
「傘、ある?」
「あります」
「だよね。ありそう」
「どういう意味ですか」
「なんとなく。ちゃんとしてるから」
褒められているのか、管理されやすそうだと思われているのか、少し迷う。
「早瀬さんは」
「ない」
ひかりは明るく即答した。
「清々しいですね」
「褒めてる?」
「違います」
「だよねー」
教室のあちこちでは、すでに誰と帰るかの相談が始まっている。
ひかりもいつもなら、その輪の中心にいてもおかしくない。
けれど今日は、なぜかまだここにいた。
「……コンビニで買うんですか」
「んー、どうしよっかな」
言いながら、ひかりは窓の外を見る。
降り続く雨を前にした顔は、困っているというより考えている顔だった。
「駅まで、遠いですか」
「徒歩十分ちょい?」
「微妙ですね」
「でしょ」
そこで、ひかりがまたこっちを見た。
いつもの軽い調子のままなのに、目だけ少しだけ慎重だった。
「相合傘、してくれる?」
澄は一瞬、聞き間違いかと思った。
「……冗談ですか」
「半分」
「残り半分は」
「本気」
あまりにもそのまま言うので、返事に困る。
断る理由はある。目立つ。変に見られる。そもそも距離が近い。
でも、ひかりが誰かほかの人に頼むところを想像すると、それも妙に落ち着かなかった。
「嫌なら全然いいよ」
ひかりはそう言って笑った。
いつもの、逃げ道をつける笑い方だった。
断られても傷ついていないふりができるように。
「……駅までなら」
自分の声が思ったより小さくて、澄は少しだけ驚いた。
ひかりも一瞬きょとんとして、それから目を丸くした。
「え、いいの」
「駅までです」
「やった」
その「やった」は、普段より低かった。
大げさに跳ねない、気を抜いた声だった。
昇降口を出ると、雨の匂いがすぐ近くまで来ていた。
屋根の端から落ちる雫が、アスファルトの上で細かく跳ねている。部活帰りの生徒たちが、走ったり叫んだりしながらそれぞれの傘へ散っていく。
澄は傘を開いた。
その瞬間、ひかりが迷いなく隣へ入ってくる。
近い、と思った。
思ったが、いまさら言えない。
「わ、ちゃんと二人入る」
「傘なので」
「夢がない返事だなあ」
ひかりは笑いながらも、肩が触れないぎりぎりを探るみたいに位置を調整した。
いつもは距離が雑なのに、こういうときだけ変に慎重だ。
校門を出てしばらくは、ひかりが普段通りに喋っていた。
クラスの誰が傘を忘れていたとか、数学の小テストが終わっているとか、購買の新作パンが微妙だったとか、本当にどうでもいい話ばかりだった。
でも駅への坂に差しかかる頃には、その声も少しずつ減っていった。
雨の音がある。
傘を打つ音、道路を走る車のタイヤが水を切る音、遠くで鳴る踏切。
喋らなくても、完全な無音にはならない。
ひかりが黙っている。
それに澄が気づいてから、たぶん三十秒くらい経っていた。
普段なら長く感じるはずなのに、今日はなぜかそうでもなかった。
隣を見ると、ひかりは前を向いたまま歩いていた。
濡れないように少しだけ澄のほうへ寄っていて、そのせいで肩口の髪がときどき触れそうになる。
「……喋らないんですね」
気づけば、先に口を開いていた。
ひかりが目を瞬かせる。
「え」
「いつもより」
「あー」
ひかりは少しだけ笑った。
雨の日のせいか、その笑い方はいつもより薄かった。
「なんかね。今日は別に、頑張らなくていいかなって」
「そうですか」
「うん。雨のせいかも」
「本当に?」
「……たぶん半分くらい」
半分、という言い方に覚えがあった。
この人は大事なことほど、少しだけ冗談みたいにして渡してくる。
「残り半分は」
聞くつもりはなかったのに、聞いてしまった。
ひかりは少しだけ足をゆるめた。
歩幅がそろう。
「雨宮さんといるから」
雨音はずっと同じ強さのはずなのに、その一言だけ妙にはっきり聞こえた。
澄は前を向いたまま、返事を探す。
気の利いた言葉は何も出てこない。
「……前にも言ってましたね」
「言ったっけ」
「仮説だと」
「そうそう。今日ので、ちょっと確信に変わったかも」
「何がですか」
「雨宮さんの前だと、沈黙が怖くない」
その言葉には、さすがに返せなかった。
ひかりは困らせたと思ったのか、すぐに明るい調子へ戻ろうとする。
「いや、変な意味じゃなくて! ほら、気まずくないっていうか、空気が死なないっていうか」
「死ぬんですか」
「死ぬときあるでしょ、会話の空気って」
「あります」
「あるんだ」
「あります」
ひかりが吹き出した。
今度の笑いは、ちゃんと軽かった。
「雨宮さん、たまに変なところで真面目だよね」
「たまにじゃないかもしれません」
「自覚あるんだ」
また少し、沈黙が落ちる。
でもさっきと同じで、苦しくはなかった。
駅前の屋根が見えてきた頃、ひかりがふいに口を開いた。
「ね」
「はい」
「わたし、今日一人で帰るの、ちょっと嫌だった」
澄は傘の持ち手を握り直した。
「……そうだと思ってました」
「うわ」
「すみません」
「いや、そこはもういいんだけど」
ひかりは少しだけ顔を伏せた。
笑っているのに、笑っていないときの顔に近かった。
「なんでわかるんだろ、ほんと」
「わかるというより」
「うん」
「そうだったらいいのに、って顔をしてたので」
言ってから、また踏み込みすぎたかもしれないと思った。
けれどひかりはすぐには何も言わず、ただ雨の向こうを見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「……それ、ずるいなあ」
「何がですか」
「そういう言い方」
駅前の屋根の下に入ると、傘を打つ音が急に遠くなる。
雨の膜を一枚外したみたいに、世界が少し静かになった。
ひかりは傘の下から出ても、すぐには離れなかった。
「ありがと」
「駅までなので」
「まだそれ言う」
「約束だったので」
「真面目だ」
ひかりは笑って、それから少しだけ視線を落とした。
「でも、うれしかった」
その声は小さかった。
冗談に逃がさないまま置かれた言葉だった。
澄はうまく返せないまま、傘を閉じる。
濡れた布の匂いが、ふっと立つ。
「……そうですか」
「うん」
改札へ向かう人の流れが二人の横をすり抜けていく。
ひかりはそれを見送ってから、まっすぐ澄を見た。
「また雨降らないかな」
「困る人、多いと思います」
「そういう意味じゃなくて」
「わかってます」
澄がそう言うと、ひかりは少しだけ目を丸くして、それから笑った。
その笑い方は、教室で見るよりずっと静かで、たぶん澄はもう忘れられない。




