第二章 帰り道
放課後、校門を出たところで声をかけられるとは思っていなかった。
「雨宮さん」
澄は足を止める。
振り返る前に、たぶんそうだろうと思った。今日だけで、もう何度その声に反応したかわからない。
ひかりは鞄を肩にかけたまま、小走りで追いついてきた。
「よかった、先帰られてなくて」
「帰るところでした」
「うん、見ればわかる」
息を切らしているわけでもないのに、ひかりはなぜか少しだけ大げさに胸に手を当てた。
「危なかったー。今日このまま帰られたら、なんか負けた気がするところだった」
「また勝ち負けの話ですか」
「あるよ、放課後にも」
「知りませんでした」
「雨宮さんは知らないことが多いなあ」
「早瀬さんの基準が独特なだけです」
ひかりは笑った。
教室にいるときより、半歩ぶんだけ柔らかい笑い方だった。
「で、どっち?」
「何がですか」
「駅。バス。徒歩。瞬間移動」
「最後は違います」
「否定そこなんだ」
「駅です」
「やった、一緒だ」
なにがやったなのかわからないまま、ひかりは当然のように隣へ並んだ。
校門から駅までの道は、同じ制服の生徒が何人も歩いている。二人きりではない。でも学校の中より、少し誰の役でもなくていい気がした。
「返信、くれなかったね」
「授業中でした」
「まじめ」
「普通です」
「で、どうだった?」
「何がですか」
「だから、あれ。バレた?」
澄は少しだけ歩く速度を落とした。
ひかりは前を向いたまま、こっちを見ない。
「……少し」
「少しなんだ」
「全部は、わかりません」
「そっか」
ひかりはそう言って、道の端の白線をつま先でなぞるみたいに歩いた。
「でもさ、雨宮さんって、見てるよね」
「見えてしまうだけです」
「それ、便利そうで不便そう」
「不便です」
「即答だ」
またそれを言われた、と思った。
でも、ひかりが少しうれしそうだったので黙っておく。
駅前に向かう通りは、夕方の光で少し金色だった。自転車が通り、コンビニの前で男子生徒がアイスを食べている。こういう何でもない景色の中に自分が混ざっていることを、澄は普段あまり意識しない。
「ね、雨宮さん」
「はい」
「わたしさ、教室だとちょっと頑張りすぎるんだよね」
ひかりの声は軽かった。
軽いままなのに、たぶん本当の話だった。
「知ってます」
「そこは知らないふりしてもよくない?」
「苦手です」
「なにが」
「知らないふり」
ひかりは一瞬だけ黙って、それから小さく吹き出した。
「あー、そっか。雨宮さん、そういう人か」
「どういう人ですか」
「優しくないのに、やさしい」
「意味がわかりません」
「わたしも完全にはわかってない」
意味がわからないことを言われる頻度が増えてきた。
駅前の横断歩道が赤になっていて、二人は人の流れに混ざって止まった。
信号待ちの短い沈黙が落ちる。
ひかりは今日は、その沈黙を急いで埋めなかった。
それが少しだけ意外で、澄は隣を見る。
ひかりは前を向いたまま、夕方の雑踏を眺めていた。
無理に笑っていない横顔は、教室で見るより少し幼く見えた。
「……早瀬さん」
「んー?」
「今は、疲れてなさそうです」
ひかりがゆっくりとこちらを向く。
「なにそれ」
「さっきよりは」
「へえ」
信号が青に変わった。
人の流れが動き始める。
けれどひかりはすぐには歩かず、ほんの一拍遅れてから足を出した。
「それ、たぶん」
「はい」
「雨宮さんがいるからかも」
横断歩道の白い線の上で、澄は少しだけ呼吸を忘れた。
「……そうですか」
「そうかも。まだ仮説だけど」
「仮説なんですね」
「大事でしょ、検証」
「何をするんですか」
「そりゃもちろん」
ひかりは先に渡りきってから、くるりと振り返った。
夕方の光が後ろから差して、顔は少し影になっていたのに、目だけはやけに明るく見えた。
「また一緒に帰る」
それは半分冗談みたいな声だった。
でも半分は、本気だった。
「嫌?」
聞き方が少しだけずるい、と思う。
嫌だと言えば引くのだろう。けれど、そう言わせない顔をしている。
澄は答える前に、自分の心臓が少しだけ速いことに気づいた。
「……嫌ではないです」
「よし、採用」
ひかりは満足そうに頷いた。
電車の時間を告げるアナウンスが、駅のほうから薄く聞こえてくる。
夕方の町は少しだけ騒がしくて、そのぶん二人の間の沈黙も紛れやすい。
澄はそれを、楽だと思った。
それを認めた瞬間から、もう前と同じではいられない気がした。




