表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
1/5

第一章 出会い

 新学期の教室は、まだ誰のものでもない空気でざわついていた。


 笑い声はある。けれど、どれも少し高い。

 まだ仲良くなっていない人同士が、仲良く見える声を出しているだけだと、雨宮澄にはわかった。


 窓際のいちばん後ろ。とりあえず落ち着けそうな席に鞄を置いて、澄は文庫本を開くふりをした。読むためではない。話しかけないでほしいという札の代わりだ。


「ね、ここ座っていい?」


 顔を上げると、明るい声の主が机の横に立っていた。


 制服の着崩し方がわざとらしくなくて、笑った顔に迷いがない。こういう子は最初から教室の真ん中へ行けるのだろうと、澄は思った。


 いや、思った瞬間、違うと気づいた。


 笑顔が、少し速い。


「……どうぞ」


「助かるー。一人で立ってると、なんか負けた感じしない?」


「負けるんですか」


「するの。新学期ってそういうゲームじゃない?」


 そう言って、彼女は澄の前の席をくるりと反対に向けて座った。距離が近い。初対面の距離ではない。


「わたし早瀬ひかり。あなたは?」


「雨宮です」


「雨宮さんね。じゃあ、あまみやん」


「やめてください」


「即却下!?」


 早い。明るい。よく喋る。

 そのくせ、息継ぎの場所が妙だった。言葉を止めるのが怖い人の喋り方だった。


 澄が何も言わないでいると、ひかりは少しだけ首を傾げた。


「もしかして、わたしうるさかった?」


「……少し」


「うわ、正直」


「すみません」


「謝るんだ。おもしろ」


 ひかりはけらけら笑った。

 楽しそうな笑い方だった。けれど笑ったあと、ほんの一瞬だけ目が止まる。


 教室のあちこちを見ている。

 誰が誰と話しているか、自分がどこに入れば自然か、置いていかれない位置はどこか。

 そんなものを、無意識に確認している目だった。


「雨宮さんって静かだね。緊張してる?」


「してます」


「即答だ」


「早瀬さんは、してなさそうです」


「えー、そう見える? うれしいかも」


「してないように見せるの、上手いですね」


 言ってから、やりすぎたかもしれないと思った。


 ひかりの笑顔が、そこで初めて止まった。


「……なにそれ」


「すみません」


「いや、謝られると気になるんだけど」


 教室のざわめきはそのままなのに、ここだけ少し音が遠い。


 ひかりは笑おうとして、少し失敗したみたいな顔で澄を見た。


「わたし、そんなわかりやすい?」


「わかりやすくは、ないです」


「ないんだ」


「でも、一人でいるの、平気なふりしてる」


 沈黙が落ちた。


 ほんの数秒のことなのに、さっきまで軽かった空気が急に重くなる。


 ひかりは何か言い返そうとして、やめた。

 その代わり、ふっと息を吐いて、小さく笑った。


「……初対面でそれ言う?」


「ごめんなさい」


「ほんとにね」


 呆れたみたいに言うくせに、その声は少しだけ柔らかかった。


 始業のチャイムが鳴る。

 ひかりは前を向く前に、もう一度だけ澄の方を見た。


「でもさ」


「……はい」


「そういうこと言うの、わたしにだけにしてね」


 冗談みたいな口調だった。


 けれど澄には、それが冗談だけではないとわかった。


 昼休みの中庭は、教室より少し嘘が薄い。


 騒いでいるグループもいるし、ベンチで静かに弁当を広げる生徒もいる。けれど教室みたいに、ずっと誰かの視線が刺さっている感じはない。


 澄は校舎の端にある低い植え込みのそばで、購買のパンを袋から出した。

 この場所は、見つかりにくくはないが、わざわざ来る人も少ない。ちょうどいい。


「いた」


 顔を上げる前に、声でわかった。


「やっぱここだった」


 早瀬ひかりは、見つけたことを隠す気のない顔で立っていた。手には紙パックのジュースが二本ある。


「……どうしてここに」


「んー? たまたま?」


 嘘だった。たまたまの声ではない。


 ひかりは澄の隣を指さした。


「座っていい?」


「昨日も聞きましたね」


「え、やだ、会話を覚えてるタイプ?」


「普通だと思います」


「普通かなあ」


 そう言いながら、ひかりはもう座っていた。

 許可を待つ気は最初からないらしい。


 一本余っているジュースを差し出される。


「はい、これ」


「……なんですか」


「お近づきのしるし」


「怖い言い方しないでください」


「ひど。普通、ありがとうじゃない?」


「まだ受け取るって言ってません」


「受け取ってよ。わたし、これ飲めないし」


「なんで買ったんですか」


「勢い」


 意味がわからない。

 けれど断るほどでもなくて、澄は紙パックを受け取った。


「ありがとうございます」


「よし、えらい」


「早瀬さん、たまに距離が雑です」


「たまにじゃないかも」


 ひかりは笑って、ストローをくわえた。

 昨日と同じように明るい。けれど教室で見たときより、声の力が少し抜けている。


 それに気づいた瞬間、ひかりがこちらを見た。


「なに」


「見てました」


「それは知ってる」


「……少し、疲れてますか」


「うわ。またそれ言う」


 ひかりはジュースを膝の上で揺らした。

 怒ったわけではない。ただ、すぐ返す言葉を探しているときの間だった。


「そんなにわかる?」


「今日は、笑う回数が多いので」


「なにそのこわい基準」


「すみません」


「謝るの早いなあ」


 風が吹いて、ひかりの前髪が少し乱れた。

 彼女はそれを直そうともせず、空を見た。


「……別に、そんな大したことじゃないんだけどね」


「はい」


「クラス替えってさ、毎年なんとなくうまくやれる気がして、でも毎年なんとなく疲れるんだよね」


 軽い調子で言っているのに、最後だけ少しだけ声が落ちた。


 澄は返事を考えた。

 慰める言葉は違う気がした。大丈夫ですかも、浅い。


「早瀬さんは、うまくやれてます」


「それ、褒めてる?」


「事実です」


「そっか」


 ひかりは笑った。今度は、本物に近かった。


「でもさ」


「はい」


「雨宮さんの前だと、うまくやろうとしなくていい感じする」


 思っていたよりまっすぐな言葉で、澄は少しだけ息を止めた。


「……どうしてですか」


「どうしてだろ。なんか、バレるからかな」


「何がですか」


「無理してるの」


 ひかりはそう言ってから、自分の言葉に驚いたみたいに目を瞬いた。


「うわ、やだ。いま忘れて」


「無理です」


「即答だし」


「覚えると思います」


「そういうとこなんだよなあ」


 困ったように笑って、ひかりは膝を抱えるみたいに少し体を縮めた。

 昨日、教室で見た「どこに入ればいいか探している子」と、今ここにいるひかりは、たぶん地続きなのだろう。


「雨宮さんってさ」


「はい」


「静かなのに、静かじゃないよね」


「意味がわかりません」


「わたしも今言いながらわかってない」


 ひかりはまた笑った。

 でもその笑いは、昨日よりちゃんと軽かった。


 昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。


「あー、戻りたくない」


「戻ってください」


「冷た」


「授業です」


「そういうとこ、ほんと真面目」


 立ち上がったひかりは、数歩先で振り返った。


「ね、雨宮さん」


「なんですか」


「またここ、来る?」


 澄は少しだけ考えてから、手の中の紙パックを見た。


「……たぶん」


「よし。じゃあ、たまたま会えるかもね」


 たまたまじゃないくせに、と思った。


 でもそれを口にすると、たぶんひかりは笑う。

 その笑いを少し見たくて、澄は何も言わなかった。


 五時間目の移動教室は、普段より少し騒がしい。


 次の授業で使う資料を抱えたまま、廊下の流れに乗って歩く。話しながら歩く者、先に教室へ向かう者、まだ席替えの余熱を引きずっているみたいに、クラスの塊がまだゆるい。


 澄は列の後ろを歩いていた。

 前に人がいるほうが、楽だからだ。


「ひかりちゃん、それノート見せてー」

「いいよー、でも字きたないよ?」

「うそ、絶対きれいじゃん」

「期待はしないでください!」


 数メートル先で、ひかりの声がする。


 振り向かなくても、だいたいわかる。

 今は三人に囲まれていて、そのうち二人には体ごと向いている。残る一人には歩幅だけ合わせて、会話からこぼれないようにしている。


 器用だ、と思う。


 誰か一人だけを置いていく空気を作らない。

 誰かの話が途切れたら拾う。

 笑う場所を間違えない。

 間違えないようにし続けている。


「雨宮さん」


 急に真横から名前を呼ばれて、澄は足を止めそうになった。


 ひかりがいた。

 さっきまで前にいたはずなのに、いつの間にか輪を抜けてこちらに並んでいる。


「……どうしたんですか」


「え、来ちゃだめだった?」


「そういう意味では」


「よかった」


 ひかりはそう言って笑った。

 自然な笑い方だった。少なくとも今この瞬間は。


 けれど、後ろからすぐに別の声が飛ぶ。


「ひかりちゃん、教科書ー」


「あ、待って、いま行くー!」


 ぱっと返事をして、ひかりは半歩だけ前へ出る。出て、それからなぜか止まった。


「雨宮さんも、一緒に行く?」


「行きます。授業なので」


「そこじゃなくて」


 ひかりが少しだけ身をかがめる。周りには聞こえないくらいの声になる。


「わたしの横」


 一瞬だけ、言葉の意味を測りかねた。


 ただ一緒に教室へ向かうだけなのに、その言い方だと妙に距離が近い。


「……別に、いいですけど」


「やった」


 ひかりは満足そうに笑って、今度こそ前へ戻る。

 けれど完全に輪の真ん中へは戻らず、澄がついていけるくらいの速度で歩いた。


「なにそれ、保護者?」

「違う違う、こっちが付き添われてるの」

「えー?」


 軽口が飛んで、笑いが起こる。

 ひかりはその全部に、きちんと反応する。


 きちんとしすぎている、と澄は思った。


 教室の前まで来たところで、一人の女子がひかりの袖を引いた。


「ひかりちゃんって、ほんと誰とでも仲良くなるよね」

「そうかな?」

「そうだよ。すごいよね、そういうの」


 褒め言葉なのだろう。


 ひかりは少しだけ目を丸くして、それからいつも通りの声で笑った。


「いやいや、そんな才能みたいに言われると困るって」


 その返しはうまかった。

 場が軽くなる、ちょうどいい返しだった。


 でも、澄にはわかった。

 今の一瞬だけ、ひかりは本当に困っていた。


 才能なんかじゃない。

 やらないといけないからやっている、という顔だった。


 教室に入る直前、ひかりがちらっと澄を見る。

 ほんの一秒にも満たない視線だったのに、たぶん確認だった。


 今の顔、見られたか。

 見られたなら、何を思ったか。


 そんな視線だった。


 澄は少しだけ迷って、でも目をそらさなかった。


 するとひかりは、わずかにだけ口元をゆるめた。

 助かった、みたいな。

 見つかった、みたいな。

 よくわからない、小さな安堵の顔だった。


「はいはい、席ついてー」


 教師の声で空気がほどける。

 皆が自分の席へ向かう流れの中で、ひかりはまた前のほうの友達に混ざっていった。


 ちゃんと混ざって、ちゃんと笑って、ちゃんと人気者をやっている。


 澄はそれを見ながら、自分の席に座った。


 早瀬ひかりは、無理をしている。


 でもそれだけじゃない。

 あの子はたぶん、本当に人と話すのが上手いし、本当に誰かを輪の中に入れられる。

 だから厄介だった。


 全部が演技なら、もっと簡単に嫌えたのにと思う。


 机の上に教科書を置く。

 ほどなくして、ポケットのスマホが短く震えた。


 もちろん授業前に見るつもりはなかった。

 でも画面に一瞬だけ浮いた通知の名前で、見えてしまった。


 早瀬ひかり

 今の、ちょっとしんどかったのバレた?


 澄は数秒、固まったまま画面を見た。


 それからスマホを伏せて、前を向く。


 チャイムが鳴る。


 授業が始まるより先に、澄はひかりへの返事を考えていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ