第一章 出会い
新学期の教室は、まだ誰のものでもない空気でざわついていた。
笑い声はある。けれど、どれも少し高い。
まだ仲良くなっていない人同士が、仲良く見える声を出しているだけだと、雨宮澄にはわかった。
窓際のいちばん後ろ。とりあえず落ち着けそうな席に鞄を置いて、澄は文庫本を開くふりをした。読むためではない。話しかけないでほしいという札の代わりだ。
「ね、ここ座っていい?」
顔を上げると、明るい声の主が机の横に立っていた。
制服の着崩し方がわざとらしくなくて、笑った顔に迷いがない。こういう子は最初から教室の真ん中へ行けるのだろうと、澄は思った。
いや、思った瞬間、違うと気づいた。
笑顔が、少し速い。
「……どうぞ」
「助かるー。一人で立ってると、なんか負けた感じしない?」
「負けるんですか」
「するの。新学期ってそういうゲームじゃない?」
そう言って、彼女は澄の前の席をくるりと反対に向けて座った。距離が近い。初対面の距離ではない。
「わたし早瀬ひかり。あなたは?」
「雨宮です」
「雨宮さんね。じゃあ、あまみやん」
「やめてください」
「即却下!?」
早い。明るい。よく喋る。
そのくせ、息継ぎの場所が妙だった。言葉を止めるのが怖い人の喋り方だった。
澄が何も言わないでいると、ひかりは少しだけ首を傾げた。
「もしかして、わたしうるさかった?」
「……少し」
「うわ、正直」
「すみません」
「謝るんだ。おもしろ」
ひかりはけらけら笑った。
楽しそうな笑い方だった。けれど笑ったあと、ほんの一瞬だけ目が止まる。
教室のあちこちを見ている。
誰が誰と話しているか、自分がどこに入れば自然か、置いていかれない位置はどこか。
そんなものを、無意識に確認している目だった。
「雨宮さんって静かだね。緊張してる?」
「してます」
「即答だ」
「早瀬さんは、してなさそうです」
「えー、そう見える? うれしいかも」
「してないように見せるの、上手いですね」
言ってから、やりすぎたかもしれないと思った。
ひかりの笑顔が、そこで初めて止まった。
「……なにそれ」
「すみません」
「いや、謝られると気になるんだけど」
教室のざわめきはそのままなのに、ここだけ少し音が遠い。
ひかりは笑おうとして、少し失敗したみたいな顔で澄を見た。
「わたし、そんなわかりやすい?」
「わかりやすくは、ないです」
「ないんだ」
「でも、一人でいるの、平気なふりしてる」
沈黙が落ちた。
ほんの数秒のことなのに、さっきまで軽かった空気が急に重くなる。
ひかりは何か言い返そうとして、やめた。
その代わり、ふっと息を吐いて、小さく笑った。
「……初対面でそれ言う?」
「ごめんなさい」
「ほんとにね」
呆れたみたいに言うくせに、その声は少しだけ柔らかかった。
始業のチャイムが鳴る。
ひかりは前を向く前に、もう一度だけ澄の方を見た。
「でもさ」
「……はい」
「そういうこと言うの、わたしにだけにしてね」
冗談みたいな口調だった。
けれど澄には、それが冗談だけではないとわかった。
昼休みの中庭は、教室より少し嘘が薄い。
騒いでいるグループもいるし、ベンチで静かに弁当を広げる生徒もいる。けれど教室みたいに、ずっと誰かの視線が刺さっている感じはない。
澄は校舎の端にある低い植え込みのそばで、購買のパンを袋から出した。
この場所は、見つかりにくくはないが、わざわざ来る人も少ない。ちょうどいい。
「いた」
顔を上げる前に、声でわかった。
「やっぱここだった」
早瀬ひかりは、見つけたことを隠す気のない顔で立っていた。手には紙パックのジュースが二本ある。
「……どうしてここに」
「んー? たまたま?」
嘘だった。たまたまの声ではない。
ひかりは澄の隣を指さした。
「座っていい?」
「昨日も聞きましたね」
「え、やだ、会話を覚えてるタイプ?」
「普通だと思います」
「普通かなあ」
そう言いながら、ひかりはもう座っていた。
許可を待つ気は最初からないらしい。
一本余っているジュースを差し出される。
「はい、これ」
「……なんですか」
「お近づきのしるし」
「怖い言い方しないでください」
「ひど。普通、ありがとうじゃない?」
「まだ受け取るって言ってません」
「受け取ってよ。わたし、これ飲めないし」
「なんで買ったんですか」
「勢い」
意味がわからない。
けれど断るほどでもなくて、澄は紙パックを受け取った。
「ありがとうございます」
「よし、えらい」
「早瀬さん、たまに距離が雑です」
「たまにじゃないかも」
ひかりは笑って、ストローをくわえた。
昨日と同じように明るい。けれど教室で見たときより、声の力が少し抜けている。
それに気づいた瞬間、ひかりがこちらを見た。
「なに」
「見てました」
「それは知ってる」
「……少し、疲れてますか」
「うわ。またそれ言う」
ひかりはジュースを膝の上で揺らした。
怒ったわけではない。ただ、すぐ返す言葉を探しているときの間だった。
「そんなにわかる?」
「今日は、笑う回数が多いので」
「なにそのこわい基準」
「すみません」
「謝るの早いなあ」
風が吹いて、ひかりの前髪が少し乱れた。
彼女はそれを直そうともせず、空を見た。
「……別に、そんな大したことじゃないんだけどね」
「はい」
「クラス替えってさ、毎年なんとなくうまくやれる気がして、でも毎年なんとなく疲れるんだよね」
軽い調子で言っているのに、最後だけ少しだけ声が落ちた。
澄は返事を考えた。
慰める言葉は違う気がした。大丈夫ですかも、浅い。
「早瀬さんは、うまくやれてます」
「それ、褒めてる?」
「事実です」
「そっか」
ひかりは笑った。今度は、本物に近かった。
「でもさ」
「はい」
「雨宮さんの前だと、うまくやろうとしなくていい感じする」
思っていたよりまっすぐな言葉で、澄は少しだけ息を止めた。
「……どうしてですか」
「どうしてだろ。なんか、バレるからかな」
「何がですか」
「無理してるの」
ひかりはそう言ってから、自分の言葉に驚いたみたいに目を瞬いた。
「うわ、やだ。いま忘れて」
「無理です」
「即答だし」
「覚えると思います」
「そういうとこなんだよなあ」
困ったように笑って、ひかりは膝を抱えるみたいに少し体を縮めた。
昨日、教室で見た「どこに入ればいいか探している子」と、今ここにいるひかりは、たぶん地続きなのだろう。
「雨宮さんってさ」
「はい」
「静かなのに、静かじゃないよね」
「意味がわかりません」
「わたしも今言いながらわかってない」
ひかりはまた笑った。
でもその笑いは、昨日よりちゃんと軽かった。
昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。
「あー、戻りたくない」
「戻ってください」
「冷た」
「授業です」
「そういうとこ、ほんと真面目」
立ち上がったひかりは、数歩先で振り返った。
「ね、雨宮さん」
「なんですか」
「またここ、来る?」
澄は少しだけ考えてから、手の中の紙パックを見た。
「……たぶん」
「よし。じゃあ、たまたま会えるかもね」
たまたまじゃないくせに、と思った。
でもそれを口にすると、たぶんひかりは笑う。
その笑いを少し見たくて、澄は何も言わなかった。
五時間目の移動教室は、普段より少し騒がしい。
次の授業で使う資料を抱えたまま、廊下の流れに乗って歩く。話しながら歩く者、先に教室へ向かう者、まだ席替えの余熱を引きずっているみたいに、クラスの塊がまだゆるい。
澄は列の後ろを歩いていた。
前に人がいるほうが、楽だからだ。
「ひかりちゃん、それノート見せてー」
「いいよー、でも字きたないよ?」
「うそ、絶対きれいじゃん」
「期待はしないでください!」
数メートル先で、ひかりの声がする。
振り向かなくても、だいたいわかる。
今は三人に囲まれていて、そのうち二人には体ごと向いている。残る一人には歩幅だけ合わせて、会話からこぼれないようにしている。
器用だ、と思う。
誰か一人だけを置いていく空気を作らない。
誰かの話が途切れたら拾う。
笑う場所を間違えない。
間違えないようにし続けている。
「雨宮さん」
急に真横から名前を呼ばれて、澄は足を止めそうになった。
ひかりがいた。
さっきまで前にいたはずなのに、いつの間にか輪を抜けてこちらに並んでいる。
「……どうしたんですか」
「え、来ちゃだめだった?」
「そういう意味では」
「よかった」
ひかりはそう言って笑った。
自然な笑い方だった。少なくとも今この瞬間は。
けれど、後ろからすぐに別の声が飛ぶ。
「ひかりちゃん、教科書ー」
「あ、待って、いま行くー!」
ぱっと返事をして、ひかりは半歩だけ前へ出る。出て、それからなぜか止まった。
「雨宮さんも、一緒に行く?」
「行きます。授業なので」
「そこじゃなくて」
ひかりが少しだけ身をかがめる。周りには聞こえないくらいの声になる。
「わたしの横」
一瞬だけ、言葉の意味を測りかねた。
ただ一緒に教室へ向かうだけなのに、その言い方だと妙に距離が近い。
「……別に、いいですけど」
「やった」
ひかりは満足そうに笑って、今度こそ前へ戻る。
けれど完全に輪の真ん中へは戻らず、澄がついていけるくらいの速度で歩いた。
「なにそれ、保護者?」
「違う違う、こっちが付き添われてるの」
「えー?」
軽口が飛んで、笑いが起こる。
ひかりはその全部に、きちんと反応する。
きちんとしすぎている、と澄は思った。
教室の前まで来たところで、一人の女子がひかりの袖を引いた。
「ひかりちゃんって、ほんと誰とでも仲良くなるよね」
「そうかな?」
「そうだよ。すごいよね、そういうの」
褒め言葉なのだろう。
ひかりは少しだけ目を丸くして、それからいつも通りの声で笑った。
「いやいや、そんな才能みたいに言われると困るって」
その返しはうまかった。
場が軽くなる、ちょうどいい返しだった。
でも、澄にはわかった。
今の一瞬だけ、ひかりは本当に困っていた。
才能なんかじゃない。
やらないといけないからやっている、という顔だった。
教室に入る直前、ひかりがちらっと澄を見る。
ほんの一秒にも満たない視線だったのに、たぶん確認だった。
今の顔、見られたか。
見られたなら、何を思ったか。
そんな視線だった。
澄は少しだけ迷って、でも目をそらさなかった。
するとひかりは、わずかにだけ口元をゆるめた。
助かった、みたいな。
見つかった、みたいな。
よくわからない、小さな安堵の顔だった。
「はいはい、席ついてー」
教師の声で空気がほどける。
皆が自分の席へ向かう流れの中で、ひかりはまた前のほうの友達に混ざっていった。
ちゃんと混ざって、ちゃんと笑って、ちゃんと人気者をやっている。
澄はそれを見ながら、自分の席に座った。
早瀬ひかりは、無理をしている。
でもそれだけじゃない。
あの子はたぶん、本当に人と話すのが上手いし、本当に誰かを輪の中に入れられる。
だから厄介だった。
全部が演技なら、もっと簡単に嫌えたのにと思う。
机の上に教科書を置く。
ほどなくして、ポケットのスマホが短く震えた。
もちろん授業前に見るつもりはなかった。
でも画面に一瞬だけ浮いた通知の名前で、見えてしまった。
早瀬ひかり
今の、ちょっとしんどかったのバレた?
澄は数秒、固まったまま画面を見た。
それからスマホを伏せて、前を向く。
チャイムが鳴る。
授業が始まるより先に、澄はひかりへの返事を考えていた。




